体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

過去世と来世を視野に入れて、諸天善神の応援を得て現世を生きたいと思います。


当病平癒、経済繁栄、家内安全、身体健全・・・。様々な現世利益を求めて、人は神仏に祈ります。

半来、釈尊の教えは、このような現世利益を得るためのものではありませんでした。釈尊の求めたのは、仏身を成就すること、言い換えれば本来の自己に目覚めることにありました。

これはどのようのことを意味するのか、今回の記事では触れませんが、釈尊の求めたものは現世的な幸福でなかったには間違いありません。

釈尊は身体健全、眉目秀麗、頭脳明晰で、経済的、社会的に満たされた境遇にいたのですから、これは当然と言ってようでしょう。どんなに物質的に満たされていても、それだけでは真の幸せを得ることはできない。そう感じて、若き日の釈尊は修行の旅に出たのです。

ところが、現世利益を抜きにして日本の仏教を語ることはできません。仏教は大きな変容を遂げてしまったと言ってよいでしょう。

これを嘆かわしいことだと思う人もいるでしょう。ですが、わたしは真実の自己に目覚める道の途中で、現世の幸せを願うことがあってもよいと思っています。

もちろん何の努力もせずに、神仏になんとかしてもらおうというのは虫のいい話です。怠惰は、たましいの成長によってもっとも良くない在り方であると思います。

真剣に努力をした上で神仏に願えば、現実に諸天善神からのご加護はあると、わたし感じています。

今生で努力をした経験は来世へとつながっていきます。また、今生で幼少期の頃から大人も及ばない才能を発揮してきた人は、過去世の努力が実を結んだということができましょう。そこに諸天善神の応援も加わっていることもあります。

ただ、今生だけに光を当てるのではなく、過去世、来世も視野に入れて、いかに今生を生きるかを考えるのが好ましいと、わたしは考えています。

そして、良き友、よき知人といった今生のたましいと共に、諸天善神にも応援をしていただき生きたいと考えています。

ただしこれは、「人生の目的は、現世的な成功ではなく、たましいの成長、さらに言えば仏身の成就である」ということを前提としてのことですが。