キリスト教の唯一神は、天地を創造した神です。『法華経』の後半に登場する久遠実成の本仏(永遠のブッダ)は、このキリスト教の全知全能の神と同様のものかと言えば、そうではありません。
神様と言えば、白いひげを生やして杖を持ったお爺さんを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。ですが、仏教における究極的な存在、永遠のブッダは、人格神ではないのです。
釈尊はこの世界について、神が創造したとか、神が配しているとは言われていません。仏教は本来、人間を超えた絶対的な力を持った存在によって救済されるという救済宗教ではありません。
釈尊は縁起の法(真理)を説かれました。
この世界には恒常、不変なものはない。因があって、それが縁に出会って果を結び、その果は、後に影響を及ぼし、新たな因となる。
そう釈尊は説かれました。自己の世界を創造するのは神ではありません。自らが縁起の法によって自己の世界を創っているのだと釈尊は言われました。
では、世界には不変なものはないのでしょうか。あります。万物を万物足らしめている法です。それは「根源のいのち」と言ってもよいでしょう。これを妙法と言います。
『妙法蓮華経』を妙法と呼ぶことがありますが、『妙法蓮華経』は単なる経典名ではなく、宇宙本源の法であるのです。
この妙法がわたしたちを救ってくれるのではありません。実はわたしたちそのものの本質が妙法であるのです。このことに目覚めるために唱えるの南無妙法蓮華経です。
わたしたちの本質が根源のいのち、妙法そのものであることにハッキリと目覚めた人をブッダといいます。『法華経』の後半では、肉体を持ってインドに生まれた釈尊は、実は久遠の昔から真に目覚めを得ている存在であったということが説かれます。この存在のことを久遠実成の本仏(永遠のブッダ)と言いますが、これは根源的実在の人格的な表現であるのです。
日蓮聖人は、わたしたち自身が釈尊と同様、宇宙根源の法に他ならなということに目覚めるための行として唱題行を示されたたのです。
亡くなった人のことを仏と言いますが、本来は、この真実の目覚めを得た人が仏であるのです。目覚めれば、誰もが仏。誰もが成仏できる、すなわち仏と成ることができる。それが釈尊の教えです。
キリスト教においては、被造物である人が造物主である神になることはあり得ません。ですから「成神」という言葉はありません。いっぽう仏教にあっては、成仏することが目的であるのです。
先日、「キリスト教の神も仏教の仏も同じようなものですよね」とある方から訊かれました。
「いや、違います。あなたそのものが仏。そのことに目覚めていないだけです」と答えたら、きょとんとした顔をしていました。人間を遥かに超えた不可思議な力、絶対的な力をもって、人を救済してくれる存在。それが仏だと思っている人が多いようです。
死んですぐに仏であることを自覚できればよいのですが、なかなそうはいかないようです。「目覚めを得た」ことを「涅槃に入った」と表現することもありますが、これは煩悩の火が吹き消された状態を意味しています。故人の年忌法要などの供養は、故人がこのような状態に至ることへの祈りでです。
わたしは昨夜、白ワインのボトルを一本、一人で空けてしまいました。お酒を飲みたいという煩悩の火は簡単に消えそうもありません。妻には「わたしが先に死んだら、間違っても墓前や仏壇にワンカップ大関などを供えないように」と言っておこうと思います。お酒への執着を深めて、目覚めの道を進んでいけなくなるといけませんので。