体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ⑤ お釈迦さまの目覚め・その2 一枚の紙に雲を見る- 

三法印の二つ目、諸法無我について話そう。

諸法というのは、この世のあらゆる存在のこと。諸法無我は、「この世のあらゆる存在には、私というものが無い」という意味だ。

「エッ、ちゃんとボクはここにいますよ。『私が無い』ってどういうこと?」そう君は思うだろうね。この言葉を聞いただけでは意味が理解できないなのは当然だ。

「私が無い」というのは、詳しく言えば「この私は、関係性によって存在し、他の存在から切り離された、不変の主体ではない」という意味なんだ。

ある僧侶が「一枚の紙に雲を見る」と言っている。

「一枚の紙と空にに浮かぶ雲とは何の関係もないんじゃない」そう君は言うかもしれないが、つぎの話を聞いてほしい。

紙の原材料は木だ。木は大地から水を吸収して育つ。大地にしみ込む水は雨だ。空に雲がなければ雨は降らない。

一枚の紙は、木と大地と雨と雲がなかったら存在しない。これらとの関係性の中で紙というものが存在しているわけだ。一枚の紙の中には、木も大地も雨も雲も、さらに言えば太陽の光もある。日常、そんな関係性を意識して一枚の紙を見ることはないけれど、これが真実だ。

君に妹がいるとしよう。その君にわたしが「お兄ちゃんは、妹が誕生した後に生まれたのだよ」と言ったら「なに、おかしなこと言ってるの」と思うだろう。

だが、君がはじめて妹をみたとき、お母さんはこう言ったのではないかな。

「今から、あなたはお兄ちゃんよ」

妹が誕生してそのあとに君はお兄ちゃんになったのだ。妹が生まれなければ、君は永遠にお兄ちゃんにはなれなかった。

わたしも、子ができて父となり、生徒がいて教員となることができた。

膨大な数のご先祖さまが、たった一人でも欠けていたら、わたしが今ここに存在することはなかった。そう思うと、わたしはご先祖に感謝の合掌をしたくなる。

他の存在から切り離されて存在している「わたし」はどこにもないのだ。万物はつながりのなかにある。

だが、現代の競争社会の中で、このつながりを感じるのは難しい。

現代の人たちは、学校では成績が上か下か、社会に出たら業績を上げたかどうか、いつも他者と比較されて生きている。その中で傷を深め合って生きている。

比較されて、あるいは比較して、他者との離別感が深まれば深まるほどに、人は元気をなくしていく。

ほんとうは、どのいのちも、他の存在から切り離されて、ポツンと立って生きることはできない。つながりの中で生かされているのだ。

ある、いつも謙虚な社長さんに「社長なんですから、もう少し威張ってもいいんじゃありませんか」と、わたしの知人が言ったら、社長さんはこう答えたという。

「社員がいなかったら『わしは社長だ』と胸を張っても、だれも社長とは見ませんよ。社員あっての社長です」

この社長さんは、「諸法無我」を感じて生きていると言ってよいのではないかな。

自分が世界から孤立しているということはあり得ない。自分はいつも世界とのつながりの中にあって、生かされている。「諸法無我」に目覚めると、君はこのことを実感するようになるだろう。