体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ② ー幸せってなんだろう?ー

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ある新宗教のパンフレットに、三つの「幸せの条件」が記されてあった。

1.経済的に何の問題もないこと。

2. 健康であること

3.人間関係が良好であること。

この宗教に入信すると、この三つの条件が満たされて幸せになれるのだそうだ。

これを、現世利益(げんせりやく)と言う。神仏を信仰することによって、この世において得られる幸せだね。一般的に人が思い描く幸せとは、この三つが満たされている状態なのではないかな。

南無妙法蓮華経のことをお題目というが(その理由は後で話そう)、お題目を唱えることを中心に据えている新宗教にも、「お題目を唱えれば、この三つが満たされるのです」と謳(うた)っているところがある。

さて、わたしは日蓮宗という伝統仏教の僧侶なのだけれど「僧侶のあなたも、この三つが満たされた状態こそが幸せだと考えますか」と問われたたら、「その通りです」とは答えない。

この三つが人生の中で大切であるということに異論はない。もし君が貧困の中にいたり、病気で苦しんでいたり、イジメに遇っていたりしていて、その状態から抜け出すことができたなら、わたしは心から「よかったね」と言うだろう。

だが、わたしは次のような幸せがあることを知っている。

夜間の定時制高校で教えていた二十代のころのことだ。

昼間、小さな工場で汗を流して働き、病弱で働けない母親と幼い弟と妹を支えている男子生徒がいた。時々、仕事が長引いて、遅刻して教室に入ってくることもある。父親は他界していなかった。

この生徒にわたしは「大変だなあ。辛いだろ」と言ったことがある。すると彼は笑顔でこう答えた。

「辛くなんかありません。学校を終えて家に帰ると、ちっちゃな弟と妹が『お兄ちゃん、お帰り』って、ぼくに飛びついてくるんです。母はいつも微笑んで『疲れただろう。御苦労さま』とぼくを労(ねぎら)ってくれます。ぼくは幸せです」

貧しい家庭にあって、母親が病の床に臥していても、彼は幸せだった。

定時制高校に勤務していたころ、こんな女子生徒もいた。

彼女の家庭も貧しくて、昼間働いて得た給料の一部を修学旅行資金としてコツコツと貯金していた。彼女は関西方面に行く修学旅行をとても楽しみにしていた。

ところが、修学旅行の旅費を徴収するときになって、彼女はさみしそうな顔でわたしにこう告げたんだ。「修学旅行には行けません」

「エッ、なぜ?」とわたしが問うと「貯金通帳を開いたら預金額が百円しかなかったんです」と言う。貯金したお金は、父親がお酒を飲むのに使ってしまったということだった。

だけれど、貧困の中で、どうしょうもない父親を持ちながら、彼女も決して不幸ではなかった。修学旅行の楽しい思いではつくることができなかったけれど、父親を恨むこともなく、頑張って夜間制の短期大学に進学し、明るく真っ直ぐに自分の道を切り拓いていった。卒業式の日の彼女の幸せそうな笑顔を今でも思い出すことができる。

いっぽう、裕福な家庭に育ち、両親に愛され、健康でありながら、人と会うのが怖いと言って登校できず(イジメに遇ったりしていたわけではない。)、不幸の中にいる生徒との出会いもあった。

さまざまな生徒たちとの出会いの中で、わたしは「幸せってなんだろう」とずっと考えてきた。

今、わたしは、真実の幸せは、富、身体の健康、資格や地位など、この世の目に見えるもので量ることはできないと感じている。

サン=テグジュベリの『星の王子さま』の中で、王子さまはこう言っている。

「ほんとうにたいせつなものは目に見えないんだよ」

ほんとうにたいせつなもの。それは、ほんとうの幸せと言い換えてもよいだろう。目に見えないほんとうの幸せ。この幸せについて語ることにしよう。