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14歳の君へ⑩ お釈迦さまの目覚め・その7 ー絶対的なやすらぎと静寂ー

縁起がいいとか悪いとか言うよね。「縁起」は、一般には「物事が起こり始まろうとする気配」のことを言う言葉だけれど、これは本来、仏教用語の「因縁生起」の意なんだ。

わたしたちの人生は、因と縁によって紡(つむ)がれていく。因とは直接的な原因。縁とは間接的な原因だ。

医師をしている、ある若者は、難病を患っていた妹が医師によって救われたことがあり、自分も人の命を救う医者になりたいと決意した。これは彼が医師になった因だね。

彼はそう決意したものの、家庭は経済的な豊かさとは縁がなく、予備校に通う金銭的なゆとりはなかった。だが、夜遅くまで親身に勉強を教えてくれる高校の先生との出会いがあり、奨学金を得ることもでき、彼は無事に公立大学の医学部に進学することができた。良き先生との出会、得ることができた奨学金、そして合格した公立大学は、医師になるための縁だね。

朝顔の種は朝顔になる因をもっているが、太陽の光とか土とか水といった縁がなければ、成長し開花することはできない。

すべては、因と縁によって生じ起こっている。

わたしたちは、良い因だけではなく、悪い因をつくってしまうこともあるし、悪い縁と出会ってしまうこともある。

貧しさの中で、どうしても富裕層の仲間に入りたいという募(つの)る思いが因となって、悪友との出会いが縁となり、振り込め詐欺に加担し、逮捕された若者をわたしは知っている。

因縁は個人的なものだけではなく、家庭、さらには国家、地球レベルの因縁もある。

人類の、どこまでも物質的な豊かさを享受したいという欲念が因となり、そこにさまざまな縁が加わり、この星の生態系が破壊されつつあることは、君も知っていると思う。

良い因だけをつくり、良い縁をだけに出会うことができればよいのだけれども、そうはいかない。また、どんなに良き因をつくり、良き縁に恵まれたとしても、誰もが老いて死ぬことから免れることはできない。

まさに、この世は無常だ。有為の世界の一切の事物は、因と縁が和合し変化していく。これに抗うことはできない。

お釈迦さまも例外ではなかった。死を間近にした八十歳のお釈迦さまは、自分の身体について「古ぼけた車が革紐の助けによって、なんとか動いている、そんな状態だ」と言っている。そして、招かれた家で出された食事によって食中毒を起こし、この世の生を終えた。

でも死を目前に控えたお釈迦さまには、不安も恐れもなかった。お釈迦さまは、自分の命があと三か月で尽きるであろうと悟ったとき、こう言っている。 

「世界は楽しく、愛すべきものであった」

お釈迦さまは、食中毒による腹痛を感じながら、絶対的なやすらぎと静寂の中に在ったのだ。これは「絶対的な幸福を得た」と表現してもよいだろう。

先にあげた「海と波の譬え」で言えば、お釈迦さまは、常に海を感じながら波として、この世を生きていたと言うことができる。

ほとんどの人は、自己の本質が海であることを知らず、切り離された波として、他者と自分を比較して、優越感を抱いたり落ち込んだりして、分別知によって生きている。

お釈迦さまは、瞑想の中で無分別智を得て「真実の私は波ではなく海である」という真実に目覚めた。この真実に目覚めれば、何かを得る必要も、どこかに行く必要もなく、今ここに在って幸せを実感することができる。わたしたちは、いつだって、どこに居たって海と共にあるのだから。

人間関係の煩(わずら)わしさから解放されて静かに生きていた方が、海は感じやすい。兼好法師も「まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ(心を乱すものから離れ、ただ一人で居ることこそ、よいことだ)と言っている。

だけれど、わたしたちは世俗の社会を離れて、人里離れた山の中で生活する訳にはいかない。では、わたしたちが無分別智を得るのは至難のことなのだろうか。

「自分は凡人で、宗教的天才のお釈迦さまとは違う。たとえ一人静かに生きたとしても、無分別智に目覚めることはできないだろう」そう思う人もいるだろう。

だが、日蓮聖人は、この苦しみや悲しみに満ちた世の中に在って、誰でもがお釈迦さまが修行して得た智慧に目覚めることができると言い切っている。

そのための修行が南無妙法蓮華経を唱える唱題行なのだ。このことをどうしても伝えたくて、わたしは君に語っている。

海。それは大いなる御仏(みほとけ)のいのちだ。「そんなものがほんとうにあるの?」君はそう思うかもしれないが、わたしは唱題行をすることで、その大いなる御仏いのちを実感している。このことは先に行って詳しく語ろう。