体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ④ お釈迦さまの目覚め・その1 ー万物は変化の中にあるー

釈尊は六年間、苦行を続けた。だが結果が出ない。そこで苦行を捨てる決心をして下山した。衰弱し切っていた釈尊を見た近隣の村の娘、スジャータが乳粥(ちちがゆ)を施すと、釈尊はそれを食べて体力を回復し、菩提樹の下で深い瞑想に入る。そして四十九日後、遂に真理に目覚め、絶対的な幸せを得たのだ。

釈尊のことをブッダと呼ぶことがあるけれど、「ブッダ」は固有名詞ではない。「目覚めた人」という意味なんだ。

さて、釈尊が目覚めたのは真理とはどのようなものであったのか。それは三つのポイントにまとめることができる。これを三法印(さんぽういん)という。「法印」とは教えを貫いている、はっきりとした特徴という意味だ。これこそがお釈迦さまの教えであると証明するものといってもよいだろう。

これから、この三つを一つずつ明らかにしていこう。このことを知識として知るだけでも、もし君が今、悩みの中にいるとしたら、希望の光を見出すことができるかもしれない。そこが仏教のスタート地点だ。

悩みを根本的に解消するには、仏道修行(仏教のトレーニング)を積むことが必要だ。南無妙法蓮華経を唱えることは、この修行なのだけれど、このことは後で詳しく話そう。

一つ目のポイントは諸行無常(しょぎょうむじょう)。これは「この世のすべての現象、万物は、常に変化してやむことがない」という意味だ。

日本の古典文学は、仏教の教えを知らなければ理解できない。わたしは高校で古典を教えていたのだけれど、『徒然草』の授業中、「諸行無常」について説明してから、生徒にこんな問いかけをした。

この世にあって、永遠に変化しないものがあると思うかい」

すると、ひとりの男子生徒が「ハイッ」と挙手して「永遠に変化しないもは、あります」と言った。

「それは何なの」と問うと、彼はこう答えた。

「ボクの彼女への愛です。ボクは彼女を永遠に愛し、守り抜きます!」

わたしは彼にこう返答した。

「なるほど・・・。君たち二人は将来、結婚するかもしれない(彼は嬉しそうに頷いた)。だが老後、君がボケてしまう可能性もある。年老いてから、君がさっき服用したばかりの薬を、また飲もうとして、『あなた何やってるの。ホント、目が離せないんだから。大変なことになるわよ!』と彼女から叱られることもあるかもしれないぞ。老後は君が彼女を守るんじゃなくて、彼女から守られることになるかもしれんよ」

「変化なんかしたくない」そう思っても、それは不可能だ。

わたしは幼い孫二人、姉と弟が雪が降りしきる中、「雪だ、雪だ」と嬉しそうに飛び跳ねているのを見て、こう思った。

「この無邪気な時間がずっと続けいけばよいのだがな・・・。数年後にはこの子たちは、学校に入学して友達関係に悩んだりして傷つき、いくつもの壁にぶつかって生きていくことになるのだろう」

こんなことを言うと、君は「お釈迦さまの教えの、いったいどこに希望の光があるんですか」と思うかもしれないね。だが「諸行無常」には明るい面もあるんだよ。

貧困の中にあっても、病気になっても、イジメに遇っていても、永遠にその状態が続くわけではない。この世のすべての現象、万物は変化してやまないのだからね。

わたしたちは常に変化の中にある。そしてその変化が好ましいものであることもある。だがそうでない場合は、往々にして変化を拒み、今の状態にしがみついてしまう。それが苦しみを生みだすのだ。

昔、臨終の場で家族に囲まれた中、金庫の鍵を握りしめて「この鍵だけは、絶対に誰にも渡さん」と言って死んでいった政治家がいた。あの世に金庫を持っていけるわけはないのにね。

君は「いろは歌」を知っていると思う。これはお釈迦さまの教えを説いた歌なんだよ。

有為の奥山 今日超えて (うゐのおくやま けふこえて)
(苦しい諸行無常のこの世を わたしは、今日超えて)

浅き夢見じ 酔ひもせず (あさきゆめみし ゑいもせす)
(はかない夢など見ず、形あるこの世界に酔うこともしないぞ)

これが、いろは歌の後半だ。「有為の奥山」とは、常に移り変わっていく諸行無常の、先の見通しの効かない、この世のこと。「浅い夢を見る、酔う」というのは、変化を拒み、この世の事にしがみついて、それを放すまいとする生き方だ。

こう言うと、君は、お釈迦さまの教えは「この世は虚しい」と説く、消極的なもののように思うかもしれないね。実際そう思っている人もいるようだが、それは誤解だ。

「有為」に対して「無為「と言う言葉がある。有為の奥山を超えていくその先にあるのは「無為」の世界なのだ。このことを知らないと、釈尊の教えは虚無的なもの感じられることになる。

無為。それは、あらゆる変化を超えた、絶対的な平安な境地のことだ。これを「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」という。涅槃寂静三法印の三つ目にあたる。涅槃寂静については、三法印の二つ目、「諸法無我(しょほうむが)」を明らかにしたうえで話すことにしよう。