体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

教育的洗脳

教員時代のことです。おそろいの緑色のTシャツを着て、一緒に声を張り上げて、子どもたちのバレーボールの試合を応援しているお母さんたちを見て、同僚がこう言いました。

「まるで宗教みたいだな」

何の疑問も抱かず、皆で同一の行動を取る不気味さ。同僚は、宗教にそのようなイメージを持っているようでした。

すべての宗教がこの不気味さを持っているわけではないでしょうが、宗教には洗脳のイメージつきまといます。

実は、教員も生徒を洗脳しています。

以前わたしが勤務してい高校は、毎朝、多数の生徒が遅刻して登校する学校でした。近隣の住民から「こんなだらしのない公立高校があつてよいのか」といった批判が教育委員会に寄せられたりして、学校を挙げて遅刻をなくす取り組みをすることとなりました。

わたしたち教員は「遅刻するのは異常なこと。遅刻をするような人間は社会に出たら通用しない」と言い続け、朝は、学校の最寄りの駅の前や正門に立ち、生徒を遅刻せぬように走らせました。

これは「遅刻しないのが当たり前」と生徒を洗脳したといってもよいでしょう。生徒たちが素直だったということもあったのでしょうが、この洗脳は功を奏し、遅刻者数は限りなく0に近づき、保護者から感謝されました。

40歳になる教え子の息子が、今春この高校に入学しました。彼に「朝、遅刻する子っているの?」と訊くと「そんなヤツいませんよ」という答えが返ってきました。「そんなの、当たり前でしょ」という感じの口調で、なんだか可笑しかったです。

実はこの教育的洗脳の首謀者は、校長と、当時、生活指導部主任であったわたしでした。

わたしは、自分が高校生のころは、クラスメートから「小島って、みんなと一緒に行動していても、なんか、いつも一人っていう感じだよな」と言われることがあり、教育的な洗脳になじめませんでした。通っていた学校の「当たり前」に従わず、午後の授業を自主早退(「さぼり」とも言います)し、宗教探訪に出かけたこともありました。もちろん単独行動です。

そのわたしが、生徒に教育的洗脳をする教員になるとは・・・。

ですが、わたしが、成人してからも付き合っている教え子のほとんどは、教育的な洗脳になじめなかった生徒、言い方を変えれば問題児です。

かつて、勤務していた高校の副校長が、体育館の壇上に立ち、全校生徒の前でこう言いました。「われわれ教員は、君たち全員を一人も漏れることなく卒業させるために、全力を尽くしていく。しっかりとついてきてほしい!」。保護者にとっては有り難い言葉でしょう。

わたしは、この副校長の言葉に従わず、何人かの生徒が中途退学をするのを応援しました。退学させた方が、その生徒の個性を活かすことができると考えたからです。

太平洋戦争中は、「この戦いは聖戦だ。お国のために立派に戦ってきなさい」と教え子を戦場に送るのが良い教員でした(わたしが当時、教員だったら、生徒の耳元で「死ぬなよ。絶対に死なずに帰ってこい」と囁いたかもしれません)。

その時代の社会状況に順応するように生徒を育むこと。それが教育的洗脳であるといってよいでしょう。

カルトと呼ばれるような宗教には洗脳の匂いがしますが、釈尊の歩まれた道は、これとは対極にあるものでした。いかなる権威の支配も受けず、なにものにも依存せず、ただ独り真実に向かって歩んで行く。それが釈尊の歩まれた道でした。

釈尊は人々に難行苦行を勧めることをせず、中道を説かれました。ですが、わたしは釈尊の歩まれた道は、ある意味で大変に厳しい道であったと感じています。

わたしの場合は、厳しい道ではなく、ただの変人の道を歩んできたのだと思いますが。

 

 

 

 

 

 

 

 

宗教・支配と依存の関係

安倍元首相の銃撃事件を受けて、カルトやマインドコントロールが今、話題になっています。立正大学の西田公昭教授はこう言います。

 

人生には悩みや不安はつきもの。誰でも何か超越的な存在の力を信じたがる気持ちになりやすいときがあります。                             そんなとき、信じることで安心感やいやしを与える「健全な宗教」がある一方、「無理してでも従わなければ、幸せにはなれない」と脅迫的にうたって自由を奪い、人心を縛る破壊的なカルト集団も一部にあります。(2022年8月3日・朝日新聞

 

カルト集団は脅迫的なメッセージを信徒に送り、信徒を不安や恐怖で支配します。このような集団は、何かに依存して不安から苦しみから解放されたいという、多数の人の抜き去り難い思いにつけ込んで発展してきたと言ってよいでしょう。それは支配と依存の関係で成り立っているとも言えましょう。

西田教授が教鞭を執っている立正大学は、日蓮宗僧侶の教育機関を淵源とする大学。日蓮宗の多くの僧侶は、この大学の仏教学部の出身者です。日蓮宗をはじめとする伝統仏教の諸教団は、一般に「健全な宗教」であると目されていますが、伝統仏教の僧侶も、支配と依存の関係には注意しないといけないと感じています。

わたしは、法要を依頼された場合、「供養してさしあげましょう」とは言いません。「共に供養しましょう」とお伝えします。

「一般人にはない、供養する力を僧侶は持っていて、一般人は、その力を頼って僧侶にお布施を渡し、供養を依頼する」。そのような感覚を持っている人が多いようです。

ですが、葬儀や年忌法要の主役は、本当は僧侶ではなく遺族であると、わたしは思っています。僧侶はその先導役です。

遺族の祈りが亡き人に届き、亡き人はその思いで癒され、あの世で仏の世界に向かって向上していく。このことをわたしは実感しています。ですから法要の際、ご遺族に「ご一緒に、心を込めてお題目をお唱えください」とお伝えしています。

わたしが所属している宗派(日蓮宗)ではありませんが、遺族の振る舞いが失礼だということで、葬儀の読経を途中で止めて帰ってしまった僧侶がいたという話を聞いたことがあります。その僧侶には「僧侶は一般人から特別に敬われるべき存在である」という思いがあったのでしょう。

一歩間違うと、伝統仏教の僧侶と檀家、信徒の間にも支配と依存の関係ができてしまいかねないと感じています。

この件について、妻は「あなたは、信徒さんたちを魅了するようなカリスマ性はないから、心配する必要はないんじゃない」と言います。ほめられていのだか、けなされているのだか・・・。

 

 

 

 

 

自己とあの世の魂の供養

「供養」という言葉を知らない人はいないでしょう。ですが「供養って何?」と訊かれて、明確に説明できる人は少ないのではないでしょうか。供養とは仏さまへの帰依と感謝の思いを表す行為です。

供養には、利(り)供養、敬(きょう)供養 行(ぎょう)供養の三種類あります。

利供養は、仏さまにお香、お花、食べ物や飲み物を捧げる供養、敬供養は、仏さまを敬い讃嘆する供養です。読経するのは敬供養です。行供養はその教えを受持して実際に行うことです。

供養とは本来、このようなものなのですが、わが国では、亡き人の死後の平安を祈ることを供養と言っています。それは慰霊と言い換えてもよいものです。

さて、南無妙法蓮華経を唱える唱題ですが、わたしは唱題することによって、あの世の霊魂(みたま)が囚われから解放されて、清らかな世界へと上がっていくことを実感しています。

葬儀、法要で遺族と僧侶が心を込めて唱題することは、わたしは、観念的にではなく、現実的に霊にとって癒し、供養となるものであると感じています。

と同時に唱題は唱えるこの世の人をも癒すものであると実感しています。唱題は、わたし自身への癒し、供養となるものでもあると思っています。

この癒しの唱題の先にあるものは、自らが仏であることへの目覚めの唱題です。

この世とあの世のたましいを供養し、目覚めへと至る南無妙法蓮華経。そのような南無妙法蓮華経を唱えていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

埋葬文化とあの世の真実

一昨年亡くなった我が家の愛犬は、庭の片隅に深く穴を掘って葬りました。人間はそうはいきません。役所から埋葬許可証を得て、法的に定められた墓地に埋葬しなければなりません。人骨を遺棄したり、庭に埋めたりしたら、法的に罰せられます。

時々、電車の中に、骨壺の入った箱の忘れ物があるそうですが、そのほとんどが持ち主からの申し出がないとのこと。故意に電車の中に置いて去ったのでしょう。

納骨をし供養するのには費用が掛かります。その負担を負えない、あるいは負いたくない人もいるのでしょう。家の押し入れの隅に遺骨を置いている人もかなりの数いるようです。

最近は孤独死する人が増えていますが、その遺品整理をしていると、遺骨が出てくることがあるそうです。

多摩川の河辺にはマンションが林立していますが、わたしは、電車で多摩川を越えるとき、「あのマンションの少なからぬ家にも遺骨が眠っているのだろうな」と思うことがあります。

さて、本来の仏教の価値観からすると、仏舎利釈尊の遺骨)でもない限り、遺骨は特別扱いするものではないのです。釈尊の生誕の地であるインドでは、ガンジス川に焼いた遺体を投げ入れています。インドでは、死後、人は輪廻するという思想(釈尊もこの思想を受け入れていました)の下で遺骨が重視されることはなかったのです。

遺骨を大切にするのは日本の埋葬文化の特質であると言えるのですが、文化は変容していきます。近年は海洋散骨を希望する人も出てきています。

文化は変わりますが、真実は不変です。その真実とは、死後、人は夢も見ない永遠の眠りにつくのではなく、意識は存続していくということです。「死後も人は生きる」というのは物語ではなく、厳然たる真実であるという認識を、わたしは唱題修行の結果、持つに至りました。この認識のもと、僧侶として法要で読経、唱題をしています。

わたしが、今、心を痛めているのは、遺骨をぞんざいに扱う人が増えているということではありません。死んだらすべては無となると考えて、亡き人へ感謝して「高き世界へ往ってください」という祈りをしない人が少なからずいるということです。

近年、葬儀の形態は大きく様変わりしています。病院で亡くなった後、法要もお別れの会もせず、火葬場に直行する直葬(「じきそう」または「ちょくそう」と読みます)が都心部では増えています。

火葬炉の前でのみ、僧侶に読経を依頼するケースもありますが、それすらないこともあります。「仏式の葬儀は、荘厳かもしれないけれど、形にこだわって経済的な負担を増やすこともないだろう」と考える人が、特に新型コロナが蔓延してから増えているようです。

その根っこには、「死んだら意識は無くなるのだから、慰霊とか供養のための儀式は不要」といった思いがあるのでしょう。形骸的な供養の儀式はなくてもよいけれど、慰霊、供養の祈りが失せれば、この国は荒廃していく。わたしはそう感じています。

埋葬文化はこれからも変わっていくことでしょう。ですが「死後も人は生きている」という真実は不変であり、どんなに時代が変化しても、このことを踏まえて亡き人と向き合うことが大切であると思っています。

自然災害などで亡くなった方の遺骨が見つからない場合があります。遺骨を特別視する文化を大切にしている方にとっては辛いことでしょう。ですが遺骨がなくとも、間違いなく、わたしたちのあの世の人への思いは届きます。その思いによって必ず亡き人は癒されます。読経、唱題で、御霊は高き世界へと導かれていきます。この真実を知っていただきたいと思います。

昔は結婚をするにあたって仲人(なこうど)を立てるという文化がありました。ですが、今は仲人を立てないことがほとんど。仲人を立てなければ、あるいは、立派な挙式をしなければ、幸せな結婚生活ができないということはありません。

婚礼でも葬儀でも、大切なのは人の思いです。形ではありません。亡き人をあの世に送るにあたっては、その人への感謝の思いをもって、その人がこの世の囚われから解放されて、清らかな世界へと昇っていくことを願う祈りが何よりも大切でしょう。

あの世を認める高齢者から「お布施をたくさん出せば、故人は速やかにお浄土に往けるのでしょうかね」と訊かれたことがありますが、それは違います。これは経済至上主義が生んだ文化の誤りです。

わたしは遺族の祈りに寄り添い、遺族と共に御霊(みたま)が安らぎを得られることを祈って読経、唱題をさせていただいています。

 

 

 

 

 

 

 

 

道場を継承します


瀬野泰光上人の日蓮宗妙光結社を、泰光師がご高齢のため、拙宅に移転し、継承することとなりました。先日、そのためのリフォームが終わりました。

泰光師は、わたしを得度に導いてくださったお師匠様です。

結社というのは何人かの人が共同の目的のために作った団体ですが、日蓮宗では布教所のことを結社と呼んでいます。結社というと政治結社とか秘密結社が想起されます。あまり仏教的な薫りがしないので、わたしはそれに「法華道場」という語を付して、「日蓮宗妙光結社・法華道場」と呼んでいます。

文字通り法華経を講じ、南無妙法蓮華経を唱える道場です。道場ということで、畳ではなく板張りにしました。冒頭の写真がその道場です。

法華経如来神力品第二十一には、つぎのように記されています。

まさに知るべし、この処はすなわちこれ道場なり(当知是処 即是道場)

簡単に言うと、「あなたが合掌し、南無妙法蓮華経を唱える、今、ここが、仏道を歩む場、道場であるのです」という意味です。

法華の修行者にとっては、街中であろうと山谷であろうと、真剣にお題目を唱える場は、どこでも道場であるということです。

わたしは、この言葉をいつも胸に留めていますが、弘教をお任せいただいている僧籍にある身にとっては、法を説き、修行者と共に唱題できる拠点ができたことは、まことに有り難いことです。

わたしが若いころには考え及ばないことでしたが、インターネットを通して、遠く離れた場所にお住まいの方とも、この道場を瞬時に結ぶこともできます。

先日、遠方に住む方から、道場での先祖供養のご依頼がありました。コロナ禍でもありますので、わたしはZoomによる供養を提案しました。心のつながりは距離に関係はありません。インターネットを通して参列していただき、依頼者と共に道場のご本尊の前で、供養を営ませていただくつもりです。

オンラインで仏教講座やカウンセリングも実施していますが、今まではそれを書斎で行ってきました。これからは道場で行います。講座やカウンセリング終了後は、道場のご本尊に参拝していただくこともできます。

わたしは修行の師、斉藤大法上人のもとで、すでにインターネットを活用した24時間お題目リレーで海外の僧侶方とも修行させていただいていますが、これからは、道場にいながらにして、世界各地の方々と交流し、修行させていただけることとなりました。

本当に凄い時代になりました。

科学技術は時代と共に変遷していきますが、釈尊の説かれた真理は不変です。これも凄いことです。釈尊の教えは2500年の時を超えて今も変わらず、わたしたちが生きる上での道しるべとなっています。

道場を拠点として、釈尊の示された真実の道を、多くの方々と共に歩んでいきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界の平和を祈って妻から笑われました

遥かなる昔から人々は平和を祈ってきました。ですがいまだに世界では戦乱が続き、世界平和は樹立されていません

戦乱でロシア人によって夫が殺されたウクライナ人の女性が、ロシア人を撃ち殺したいと語ったという話を聞きました。この世に渦巻いている、怒りや憎しみは消えることがありません。

僧侶として、わたしは世界平和を祈っていますが、そのことを知った妻から、こう言われました。

「家庭を平和にできない僧侶が世界平和を祈るなんて、お笑いだわ」。

たしかに世界平和を祈った後、妻と口論し、家庭内紛争が勃発することもあります。

国家間の紛争のみならず、家庭内紛争も、今も昔も世界各地で勃発しています。妻から「お笑いだわ」と言われて、国と国との紛争も妻と夫との紛争も、その原因の本質は同一なのではないかと思い至りました。その原因の本質とは、元品(がんぽん)の無明(むみょう)です。

無明とは深い煩悩。最も根源的な無明を元品の無明と言います。自己と他者を離別したものと捉え、競い合ったり優劣をつけたがったりするエゴ(自我)の根本にあるのがこの無明です。エゴは馬鹿にされれば傷つき、怒り、常に他者より優位に立ちたがります。他者の苦しみには、ほとんど関心がありません。

平和運動をすることは大切でしょう。わたしは世界平和を祈り続けていきたいと思っています。ですが、わたしたちが元品の無明の闇を断ち切らない限り、どんなに平和運動を展開し、平和を祈っても、世界に真の平和は訪れないでしょう。

真実の南無妙法蓮華経を唱える唱題修行は、元品の無明を断破するためにあります。元品の無明を断破する唱題は、個人的な癒しと平安の唱題の先にあるものです。それは、エゴを超えた仏性への目覚めの唱題と呼んでもよいでしょう。

何人かはわかりませんが、一定数の人がこの目覚めの唱題をし、日常、お題目を唱えていない時にも唱題モードに在るとき、世界は、政治的な駆け引きを超えて、本当の平和に向かって変容していくことでしょう。

現在のわたしは、未熟ながらも覚めの唱題を唱えさせていただいていますが、唱題修行を終えると、自我中心の日常モードに戻ってしまいやすい状態に在ります。

目覚めの唱題修行に邁進し、まずは家庭平和を樹立したいと思っています。

日常生活即修行

昨日、友人から電話があり、「最近、あまりブログを更新していないけれど、どうしたの?」と訊かれました。「忙しいんだったら、短文でもいいから、毎日書き続けることが大切なんじゃないかな」というアドバイスも、もらいました。

持つべきものは友です。「継続は力なり」という言葉がありますが(教員時代、よく生徒に言った言葉です)、僧侶として日常の中で考えたことを、日々発信していくことに意味があるのだろうと、気づかせてもらいました。

併せて、日常生活即修行と言うことにも気づかせてもらいました。その日常の修行についても書いていこうと思っています。毎日書けるかは分かりませんが。

継続と言えば、よく妻との結婚生活も継続してきたものだと思います。継続せず、キッパリと縁を断った方がよい伴侶というのもあるに違いありません。ですが、わたしの場合は、妻との縁を切るのは明らかに逃避であると感じています。随分とケンカもしてきました。ですがそのたびに成長してきた気もします。

わたしは密かに妻のことを馬頭観音ならぬ罵倒観音と呼んでいます。しょっちゅう妻から「あなたって何てバカなの」などと罵倒されているからです。まあ、実際わたしがアホであったり、わたしに非があることが多いのですが。でも「妻の辞書には『許す』とという言葉はないのか」と嘆くことも度々です。

いっぽうでは妻に助けられてきたことも多くあります。感謝もしなければいけません。妻から罵られると「南無罵倒観世音菩薩」と心中で唱えて、忍耐の修行に励んでいます。まさに日常生活即修行ですね。

さて、今回でブログ投稿数は129記事になるのですが、ブログを継続していて不思議なことがあります。それはいきなりブログへのアクセス数が跳ね上がることがあるという現象です。

前回の記事を載せたのは7月19日。更新をしないとアクセス数は伸びないのですが、昨日はアクセス数がいきなり、いつもの8倍になりました。以前にもこういったことがありました。突然ある日だけアクセス数がいつもの10倍以上になった日もあります。偶然とは思えないのですが。なぜなのでしょう。理由が分る方があればお教えください。

いずれにしても間を置かずにブログを書き続けていきたいと思います。たとえわずかな方でも、わたしの記事に何かを感じてくださる方があれば、本当に嬉しく、有り難いことです。

ブログを書き続けるのも修行かもしれません。楽しみながらこの修行を継続していきたいと思います。