体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

宗教・支配と依存の関係

安倍元首相の銃撃事件を受けて、カルトやマインドコントロールが今、話題になっています。立正大学の西田公昭教授はこう言います。

 

人生には悩みや不安はつきもの。誰でも何か超越的な存在の力を信じたがる気持ちになりやすいときがあります。                             そんなとき、信じることで安心感やいやしを与える「健全な宗教」がある一方、「無理してでも従わなければ、幸せにはなれない」と脅迫的にうたって自由を奪い、人心を縛る破壊的なカルト集団も一部にあります。(2022年8月3日・朝日新聞

 

カルト集団は脅迫的なメッセージを信徒に送り、信徒を不安や恐怖で支配します。このような集団は、何かに依存して不安から苦しみから解放されたいという、多数の人の抜き去り難い思いにつけ込んで発展してきたと言ってよいでしょう。それは支配と依存の関係で成り立っているとも言えましょう。

西田教授が教鞭を執っている立正大学は、日蓮宗僧侶の教育機関を淵源とする大学。日蓮宗の多くの僧侶は、この大学の仏教学部の出身者です。日蓮宗をはじめとする伝統仏教の諸教団は、一般に「健全な宗教」であると目されていますが、伝統仏教の僧侶も、支配と依存の関係には注意しないといけないと感じています。

わたしは、法要を依頼された場合、「供養してさしあげましょう」とは言いません。「共に供養しましょう」とお伝えします。

「一般人にはない、供養する力を僧侶は持っていて、一般人は、その力を頼って僧侶にお布施を渡し、供養を依頼する」。そのような感覚を持っている人が多いようです。

ですが、葬儀や年忌法要の主役は、本当は僧侶ではなく遺族であると、わたしは思っています。僧侶はその先導役です。

遺族の祈りが亡き人に届き、亡き人はその思いで癒され、あの世で仏の世界に向かって向上していく。このことをわたしは実感しています。ですから法要の際、ご遺族に「ご一緒に、心を込めてお題目をお唱えください」とお伝えしています。

わたしが所属している宗派(日蓮宗)ではありませんが、遺族の振る舞いが失礼だということで、葬儀の読経を途中で止めて帰ってしまった僧侶がいたという話を聞いたことがあります。その僧侶には「僧侶は一般人から特別に敬われるべき存在である」という思いがあったのでしょう。

一歩間違うと、伝統仏教の僧侶と檀家、信徒の間にも支配と依存の関係ができてしまいかねないと感じています。

この件について、妻は「あなたは、信徒さんたちを魅了するようなカリスマ性はないから、心配する必要はないんじゃない」と言います。ほめられていのだか、けなされているのだか・・・。