体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

澄んだ真っ直ぐな祈り

 教員時代、担任をしているクラスに、大学を目指していながら受験勉強に集中できない女子生徒がいました。

「自分が志望校に受かれば、一人が落ちる。競争して人を蹴落としてまで合格したくはない」そのような思いが勉強への意欲を削いでいたのでした。彼女は心の優しい生徒でした。

私は、この生徒にこんなアドバイスをしました。

「『志望校に進学できましたら、一生懸命勉強して将来、人を助け、社会の役に立つ人間になります。神様の御心に適いますなら、お導きください』そう祈って、受験勉強に励んだらどうかな」

彼女は笑顔で頷きました。

そのあと、「お参りするなら菅原道真さんをお祀りする天満宮がよいかも」と付け加えておきました(道真公は学問の神さまです)。かつて安産に霊験のあるお寺に大学合格の祈願をしてきた男子生徒がいましたので。

ちなみに日蓮宗でも天神様さま(道真公)に祈ることがあります。

わたしは、受験合格、商売繁盛などの祈願を依頼された場合、祈願内容をご本尊にお伝えしたあと、読経、唱題をします。その際は、ただ,唱える南無妙法蓮華経と一つになり、願いが叶うように祈念することはありません。すべてを本仏にお任せします。

その願いがほんとうにその人に相応しいのか、人知では分かりませんので、自我で願い祈ることはしないのです。「我が唱える唱題は、我が唱題にあらず。み仏の唱える唱題なり」。祈願時、わたしはそう観じて法華三昧に入ります。

法華の行者の唱題による祈りの目的。それは無明の闇を破って仏と成るということです。ですが、わたしは現世的な願いを叶えることを目的とした祈りを見下したり否定したりしません。

受験、就職、恋愛、病気の平癒・・・。この世のさまざまな願いを叶えていく道程(みちのり)が人生だと言ってもよいでしょう。

この道程の中で、たましいは磨かれていくのだと思います。ですがこの道程で、人を傷つけるような思いを抱けば、たましいは汚れ、み仏の世界から遠ざかってしまいます。この点は要注意です。

成就仏身(仏と成ること)を目的とした唱題をしていれば、現世のことは自ずと整っていく。そうわたしは実感していますが、仏道にまだ縁を得ていない人に、このことをお伝えしても詮ないことです。

自分と他者の幸せを共に願う、きれいにで澄んだ真っ直ぐな現世の祈り。わたしは仏道を歩んでいない周囲の人に、そのような祈りをお勧めしています。

祈りは気休めではありません。

目には見えませんが、仏は実在し、常にわたしたちを慈しんでくださっています。仏の御心に適う、きれいで澄んだ真っ直ぐな祈りであれば、み仏は祈りを叶えてくださるでしょう。

一方で、嫉妬や憎しみの思い等から発した邪(よこしま)な祈りをすると、運気を下げることになります。

澄んだ真っ直ぐな祈りを通して、み仏の実在を感じる人が増えていくことを願ってやみません。み仏の存在を深く感じた人は、み仏に感謝し、仏と成るための祈りへと導かれていくことでしょう。

 

 

土地の神々

N君の背後の霊から、久しぶりに、N君とわたしにメッセージが届きました。

「背後の霊からのメッセージ? なにそれ。可笑しな話をしないで」そんな声が聞こえてきそうです。

N君は、教育委員会から任命された指導主事。専門の学問分野でも実績を挙げ、二児の父親でもあり、社会から信頼されている人物です。

わたしがある高校で生活指導部主任をしていたころ、彼は右腕となって、わたしを支えてくれた、成り立ての教員でした。

そのN君は、わたしに、自分が霊を感じる体質、ミーディアム霊媒)であることを、出会って早々に話してくれていました。

「信じられない」という人も多いでしょうが、心身共に健常で、霊を感じたり霊が視えたりする人は、その程度はさまざまですが、少なからずいます。多くの場合、当人がそのことを隠しているので、知られていないことが多いのですが。

N君の背後にいる霊が、いわゆる未浄化霊ではなく、大和時代かそれ以前にこの国に生きた、高い精神性を有している古代霊であることは確認済みです。

N君はインスピレーション霊媒です。霊からのメッセージをインスピレーションで受け取ります。昨日、渋谷で数年ぶりにN君と会って、古代霊さんからのメッセージを受け取りました。N君は霊媒として未熟なため、メッセージを一連のまとまった形にするのは苦労します。

N君の背後の古代霊さんのメッセージの主旨は以下のようなものでした。

「かつて、この国の民は、自然と共に生き、産土(うぶすな)の神と呼ばれる、見えない世界の存在に対して、敬いと感謝の念を持って生きていた。

それが、ある時期を境にして、その思いは一瞬のうちに衰微してしまった(ある時期とは、昭和三十年代の高度経済成長の時代を指しているようです)。

今、過疎化の進む地域では、神は祀られなくなり、顧みられることもなくなった。民の目は物質のみに向けられ、かつてこの国の民が持っていた霊性は失われつつある」

このことを、N君の背後にいる古代霊さんは案じていました。

そういえば、わたしの妻は、一年ほど前に、山形県の山奥にある生まれ育った地に赴いたことがあるのですが、そのときのことを、今は神は忘れ去られ、まったく神の護りも感じられず、自然は豊かであっても、荒涼としたものを感じたと、わたしに語っていました。

鎌倉時代武家法、「御成敗式目」には、こんなことが書かれています。

「神を敬う人々の純粋な思いに依って、神の威光は輝きを増す」

今、人から顧みられなくなった土地の神は、威光、力を失って埋没しつつあるのかもしれません。

私は僧侶として人の霊の供養をさせていただいていますが、「産土の神(自然霊)にも思いを重ねてほしい」というのが古代霊さんの思いであるようです。

土地の神々の供養、鎮魂。このことも視野に入れていかなければならないと考えています。

N君と出会った昨日、別れ際に渋谷駅の構内に貼られてあるポスターの言葉が二人の目に入りました。

それは「欲、欲、欲。人間ですもの。だれにだって欲がある・・・」という言葉でした。

古代霊さんは「欲を煽る物質中心主義の蔓延で、人々の心は、霊的な存在から遠く離れ、この国はおかしくなってしまった」ということを、ポスターを通して私たちに伝えようとされたようです。

霊性の復興。このことを大切なテーマとして、僧侶として活動していきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

死後も人は生き続けます。しかし・・・

現代の多くの知識人は、死後は無となることを前提として人生を語っています。日本の仏教界には、この前提で法を説いている僧侶がたくさんいます。本気で死後の生を信じている僧侶は、果たしてどれくらいいるのでしょうか。

故人ですが、曹洞宗大学林(現駒澤大学)で教授を務めたこともある原田祖岳(はらだ・そがく)老師(昭和36年92歳で遷化)は、死後の生命の持続を正面から説いた、数少ない僧侶です。師はつぎのように言っています。

実はわれわれ一般人の頭に死ということは、われわれが死ねばれわれの霊肉は根本的に雲散霧消してしまうと思っている人が大部分であろう。これを専門語では断見という。あるいは少数の人は死ねば肉体は亡びるが、霊魂はなくならずに宿がえすると思っている。これを常見というが、事実はそのいずれでもないということが、悟ればはっきりとわかるのである。・・・一般人はただ生命は永久不滅のものなることを信ずればよろしい。

祖岳老師は「悟ればはっきりとわかる」と言われていますが、わたしは、唱題で三昧(深い瞑想状態)に入ることができるようになってから、死後も生命が持続することがわかるようになりました。祖岳師が言われるように「わたしのたましいが、死後しばらくして、まるごと違う人間として生まれ変わる」といった単純なものでもないということも感じています。

肉体亡き後も、肉体の苦しみから脱することができなかったり(たとえば、胃がんで死んだたましいは、死後も胃の苦しみで悶えていることがあります)、この世的な執着(地位欲、色欲、財欲など)を簡単に拭い去ることができないで苦しんでいる、たましいもあります。供養はそのようなたましいの救済作業です。

死後「わたし」の全てが消え去ってしまうことを恐れている人にとっては、肉体が消えても存続する意識があるというのは朗報でしょう。ですが一概に朗報とはなり得ないということを知っておいていただきたいと思います。

何らかの思い込みや執着を持ってあの世に赴くと、生前の苦しみは、なお持続し、「無となって消えた方が楽だったかもしれない」ということもあるのです。

死後どうなるのかについて、簡単に説明することはできませんが、いのちが持続することは間違いないと、わたしは確信しています。

死後、迷うことのないように、この世に在るうちから仏道修行をしておくことをお勧めします。わたし行っている仏道修行は唱題行です。これは、ひたすら南無妙法蓮華経を唱えるだけのシンプルな修行ですが、実は大変に奥深い修行です。

関心のある方はお問合せください。

 

 

 

ほんとにあった怖い話

子どものころ、楳図かずおのホラー漫画を歯科医院の待合室で震えながら読んだ記憶があります。タイトルは、たしか「ミイラ先生」だったかと思います。とにかく怖かったのを覚えています。

最近はホラー漫画も進化(?)して、創作ではなく、実話系の怖い話が中心になっています。奇数月発行の実話系ホラー漫画雑誌に『HONKOWA』(ほんとにあった怖い話)と『実際にあった怖い話』があります。わたしは、この両誌をときどき買います。

両誌とも表紙にいつも人形の写真が載っているのですが、これを見ただけで恐怖感が募ります。読者の中心は若い女性でしょう。60代の爺さんが買うことはまずない雑誌でしょうが、恥じらうことなく書店でこの雑誌を購入しています。

わたしは、気に入っている喫茶店でブログの記事を書くことがあります。先日はそこで『実際にあった怖い話』を開いたたのですが、開く前、さすがに少々のためらいを覚えました。喫茶店でホラー漫画雑誌を真剣に読んでいる坊主頭の老人そのものがホラーであったかもしれません。

インターネット上にも怪談実話が溢れています。「ほんとにあった」とか「実話」とか銘打ってあっても、実際には創作だろうと思う人もいるでしょう。ですが、僧侶としてたましいの供養をしているわたしは、興味深い実話が収集できる場であると思っています。

たしかにそれぞれの話には脚色がほどこされている部分があるかもしれません。ですがそれらを、荒唐無稽な作り話、思い込み、あるいは病んだ心が生み出したものと、断定はできないと、わたしは考えています。

教員時代、霊が視えるという生徒、後輩の教員、校長に出会ってきました。彼ら、彼女たちは、みな真面目な人物で、健全な心の持ち主でした。

知識人の多くは「霊など存在しない。死後は無となる」という前提で人生を語っています。ですが、わたしは、仏道修行をした結果、身をもって死後の生、霊の実在を感じるようになりました。

わたしがホラー漫画を読むのは、恐怖を感じて楽しみたいからではありません。人間の本質は霊であるという認識に立って、自己も含めて、人はどのように在るべきか、生きるべきかを考究するためです。

心霊写真を見て「キャー、怖い!」と騒いでる女子高生に「他人事ではないよ。君だって死後、浄化できないで心霊写真に写る可能性があるのだよ」と言ったことがあります。

人の本質は霊である。人は死なない。このことを知って、みずからのたましいの向上を図っていくことが、だれにとっても重要なことである。そうわたしは考え、僧侶として活動しています。

 

 

保護された犬・猫の供養をすることになりました

昨日のことです。東横線自由が丘駅の近くで、NPO法人いぬねこプロジェクトさんが募金活動を行っていました。募金をすると、「保護猫配信中」と記されたパンフレットをくれました。里親を希望するする人のための電話番号が載っています。

さっそく、電話をしてみました。里親になるためではありません。わたしは担当者に次のように告げました。

「僧侶の小島弘之と申します。お伺いしたいことがあってお電話しました。そちらで亡くなった子の供養をさせていただくことは可能でしょうか」

「それはありがたいことです」との返事をいただきました。

亡くなった子は霊園で火葬され、ペットの合祀墓に葬られるとのことでした。そこで年に何回か僧侶を招いて合祀されたペットたちの供養をしてもらっているとのこと。ですが、亡くなってすぐの供養はなされておらず、それをしてもらえるのなら、大変にありがたいとのことでした。

ほとんどの子は引き取り手が見つかるのだそうですが、中には高齢で保護され、亡くなる子もいるとのこと。わたしは、その子たちの供養を無償でさせていただくことになりました。

一昨年亡くなった妻の愛犬(メスのパピヨン)は、供養をしてみると、あの世で元気に走り回っている感じでした。

この子は、わたしたち夫婦が口論をすると、心配そうに寄ってくるのではないかと思いきや、迷惑そうな感じで隣室へ避難してしまうような子でした。そんな子でしたが、愛されて育ったためか、浄化が速かったようです。

暴行を受けたりネグレクトされたりしてきたペットは、人間同様、トラウマを抱えます。人間の身勝手さのために、怯えたり、寂しい思いをしたりして、あの世へ行くペットは後を絶ちません。このような子たちには、たましいの癒しが必要です。以前から、そのような子たちの供養をしたいと思っていました。

犬や猫は、しっかりとした個性を持ち、さまざまな感情を味わって生きています。犬猫保護施設でボランティアをされている僧侶、塩田玄妙さんの実体験を描いた漫画『ペットの声が聞こえたら』には、このことが克明に描かれています。

『ペットの声が聞こえたら』は、HONKOWA(ほんとにあった怖い話)というタイトルの奇数月発行の雑誌連載の漫画ですが、ホラーではありません。心温まる内容です。玄妙さんは、あの世にいる動物の思いも分かる方です。

犬や猫は人とは違って、死後は法的には廃棄物として扱われます。ですが物ではありません。しっかりとした感情を持っています。人に愛されている犬は、嫉妬の感情を持つこともあります。

愛犬をからかって、その前でぬいぐるみのペンギンを抱っこして可愛がったところ、翌日、そのペンギンが庭にボロボロになって転がっていたという話を聞いたことがあります。どうやら焼き餅を焼いた愛犬が噛んで振り回したようだとのことでした。

犬や猫は、人の心をしっかりと受け止めています。このことを、わたしたちは、よく認識して、犬や猫をペットにすべきでしょう。

わたしは僧侶として、人と同じように心を込めて丁寧に、保護された犬や猫のj供養をしていきたいと思っています。

 

 

 

 

あなた自身を供養する

「お釈迦さまは、生きている人のために教えを説いたのですよね。でも日本の仏教は、葬儀・法要での供養が中心です。これっておかしいんじゃないですか」

そう問われたことがあります。

お寺に対人関係の悩みがあって相談にやってきた若者に、住職が「わしゃ、生者は扱わん」と言ったという話を聞いたこともあります。

日本仏教が葬式仏教と揶揄(やゆ)されるようになってから久しい時が流れています。

冒頭の問いに、わたしはこう答えました。

「わたしは、あの世の人のためにも、生きている人のためにも『法華経』読み、お題目を上げています。人の本質は霊です。肉体があるかないかは問題ではありません」

日蓮聖人の教えにおいては、唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)が正行で、『法華経』の読誦(どくじゅ)は助行です。ということで、わたしは朝夕の勤行は唱題を中心に据えています。

勤行では、わたしが継承した法華道場の信徒各家の霊に供養のお題目を上げたあと、あの世の御霊(みたま)だけではなく、依頼があれば、この世でわたしと共に『法華経』を学び行じている複数の生きている人のためにもお題目を上げています。

わたしが唱題するのは、あの世の人か、この世の人かにこだわらず、たましいを癒すためです。人だけではなく、動物のために唱題することもあります。もうじきやってくる妻の愛犬の三回忌には、その子の供養をすることになっています。

「生きている人のための唱題による供養」というと奇異に聞こえるかもしれませんが、そのようなことはありません。供養は亡きたましいか、生きているたましいかに関わらず「慰めと癒し」のために行うものです。あなた自身を供養するということがあってもよいのです。

法華三昧(深い瞑想状態)に入って唱えるお題目は、わたしではなく御仏が唱えていらっしゃると実感されます。供養はわたしの意図、計らいを超えて為されていきます。

唱題中、わたしの心の中の鏡にたましいの悲しみ、苦しみ等が映じてくることがありますが、妙法五字(妙法蓮華経)の光明に照らされて、悲しみや苦しみは浄化されていくようです。

あらゆる依存から解き放たれて、自己の本質が仏であることに目覚めていくのが仏道を歩むということです。ですが、今、苦しんでいる、あの世とこの世のたましいを慰め、癒し、勇気づけるために唱題をすることがあってもよいと思っています。まず癒されなければ、目覚めへの道を歩くのは難しいでしょう。

唱題供養をしていると、供養の対象者も、供養させていただいているわたしも、共に清まっていくことを感じます。

供養から道が開ける。このことを体験してきました。

供養を依頼したいと思う方、お問合せください。

問合せの結果、お断りになっても何の問題もありません。今、宗教から受けた被害がクローズアップされていますので、一言このことを申し添えておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

ぜひ知っておきたいお地蔵さまの話

hanasi hanasi

お地蔵さまを知らない日本人というのは、まずいないでしょう。都心部でも街中にお地蔵様が祀られていることがあります。

家内安全や病気平癒などを祈るべきではないお地蔵さまが、身近に在るのを御存じですか。

冒頭の写真は、拙宅の近くに祀られている、小さな可愛らしいお地蔵さまです。その傍らに、このお地蔵さまが建立(こんりゅう)された主旨を記した説明板が立っています。以下はその説明文です。

「昭和20年8月13日、当時の土地所有者のご家族がこの場所で米軍機の機銃掃射で亡くなられました。小学生くらいの男の子さんであったそうです。当時は、戦時中の灯火管制が敷かれており、そのお子さんの部屋だけが明かりが外に漏れていて上空から狙い撃ちされてしまったようです。終戦から二日前のことです。このお地蔵さんはその亡くなられた方をおまつりするためにこの場所に設けさせていただきました」

このように、お地蔵様は、供養(慰霊)を目的として建立されることがあります。このような地蔵尊は、お寺の境内や道端など、誰もが手を合わせることができる場所にあることが多く、供養をしなければならないお地蔵さまに、それと知らずに現世の利益を祈っている人もあるようです。

写真のお地蔵さまにも、説明板をろくに見ずに「我が子が元気に育ちますように」などと祈っている人もいるのではないかと思います。

多くの犠牲者が出た事故現場などに、供養を目的としてお地蔵さまが立っていることがあります。お地蔵さまは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道に住する全てのたましいを済度する、もっとも慈悲深い御仏(みほとけ)として信仰されてきました。ですから、このような場所にお地蔵さまが立っているのです。

お地蔵さまは子供が大好きな御仏でもいらっしゃいます。それゆれ、亡くなった子どもの供養のために建立されたお地蔵様はたくさんあります。

そういえば、拙宅の近くには、子どもが元気に育つことを願って建立された子育て地蔵もあります。写真の地蔵尊とは異なって、子育て地蔵尊では、我が子が元気に育つように祈ることが、その地蔵尊の喜びとなります。

キリスト教圏の国々と違って、日本人は供養(慰霊)ということを昔から大切にしてきました。事故死あるいは自死した人の供養のために、踏切脇に牛乳瓶などに花が活けられていることがありますが、海外の人の目には、これが不思議に映るようです。

供養が生活の中に息づいている日本にあっては、お地蔵様はもっとも親しみのある仏さまであると言っても良いのではないでしょうか。

写真のお地蔵さまに供養(慰霊)の思いをもって手を合わせていただけましたら嬉しく存じます。