体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

ホントにさまざまな祈りがあります・その2

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或る法華宗日蓮系の宗派)の僧侶から、次のような話を伺ったことがあります。

「親身になって、病気平癒の祈祷をしている日蓮宗の僧侶がいらっしゃいました。効験は著しく、多くの人がその祈祷で救われました。ですがご自身は、晩年、足を悪くし、不自由な生活をされていました。信徒さんの業を負ってしまったのでしょう。ご本人は身体的に辛かったでしょうが、多くの信徒さんから慕われていました。わたしもこのお上人を尊敬しています」

人の業を負ってしまう。真剣に信徒と向き合っている僧侶の場合、そういうことが起こり得ます(力のない祈祷をして法外なお布施を巻き上げ、信徒の業は負わず、自分自身の業を深めている僧侶もいますすが)。

いっぽうでは、真剣に他者のために祈りながら、他者の業を負うことのない僧侶もいます。わたしの師、斉藤大法上人はそのような僧侶です。一体その違いはどこにあるのでしょうか。

それは、一言でいえば、自己の力で祈るのか、法(真理)によって祈るのかの違いであると思います。

人は誰でも、多かれ少なかれ念の力を持っています。この念は生命エネルギーとか氣と呼ばれることもあります。修行を深めると念は強化されます。わたしは、早朝に冷水を被る水行と読経を続けてみて、このことを体感しました。この念を自らの身体から病者に放射して癒すのが自己の力で祈る法です。

この方法で祈念すると、他者の業を受けてしまい、その結果、心身が衰弱してしまうことがあるのです。

大法師の場合は、自分が癒すという思いは微塵も持たれていません。病者と共に妙法(永遠の仏陀のいのち、宇宙の真理)と一つになるという思いをもって、全身全霊で唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)をなさっています。そのことにより、妙法の光に包まれ、意図、計らいを超えて、病者は癒されていくのです。

弟子のわたしも、病者から依頼があった場合、師に倣(なら)って上記の唱題によって祈らせていただいています。祈りを終えた後は、爽やかさを覚えます。生命力が弱まることはありません。この唱題で自己の心身が損なわれることは一切ありませんので、わたしは、安心して命がけで(変な表現ですが実感です)、全集中の唱題をしています。

「我が唱題は我が唱題にあらず。みほとけの唱題なり」以前、唱題の祈りを終えた後、わたしはこのように修行ノートに記しました。

自己の念で祈った場合でも、真摯な祈りであれば諸天善神が加護されることもあるでしょう。ですが、その祈りには限界があるように思われます。大法師の唱題による祈りは、真に仏法に適った、無限の祈りであると、わたしは感じています。

仏教は治病術ではありません。ですが、仏の真理に目覚めるための糸口として、心身を癒すための祈りがあるのです。

唱題による祈りは遠近を問いません。日本にいて海外の人を祈るのに何の問題もありません。大法師は、Zoom上で頻繁に多くの人たちと向き合って共に唱題をされていますが、参加者が癒されていくのを、わたしは目の当たりにしてきました。

唱題にも、自力のみでする唱題、依存の唱題、我欲の唱題など、さまざまな唱題があります。わたしは、仏のみこころに適った、癒しから目覚めへと至る真の唱題、南無妙法蓮華経を、ご縁を得た方々と共に唱えていきたいと思っています。