「人を呪詛して、呪詛された人が死んだら、殺人罪に問われるんですか」そう親しい若者から質問されたことがあります。
「殺人罪として処罰されることはないよ。今の科学で呪詛と死の因果関係を証明することはできないからね。ただし呪詛していることを相手に告げると、脅迫罪になるんじゃないかな。」そう答えると若者はこう言いました。
「相手が死んだとしても、殺人罪で逮捕されないんですね。安心しました」
「おいおい、安心してを呪詛するというのかい。それはいけません。『人を呪わば穴二つ』ということわざの通りになるよ」そうわたしは若者をたしなめました。
「二つの穴」は呪い殺した人の墓穴と自分の墓穴です。人を呪詛すれば必ず報いが自分に返ってくるということです。このことわざは、現代では単なる道徳的な戒めとなっていていますが、明治の初期までは呪詛に効力があることを国家も認めていました。
明治元年に制定された刑法典では、呪詛を毒殺と並べて殺人の手段として認め、処罰の対象としました。それが第二次世界大戦後は、呪詛に関する罪は刑事法典からすべて抹消されました。呪詛は非科学的なもので、効力はなく、処罰の基準として採用されるべきものではないということなのでしょう。
ということで、現代にあっては、拝み屋さん、祈祷師と呼ばれる人たちが、はばかることなく呪殺の依頼を受けています。この中には、何の力もない詐欺師のような人もいますが、そうではない人もいると、わたしは認識しています。
唱和45年、公害企業主呪殺僧団が結成されました。メンバーは、真言宗と日蓮宗の僧侶、そして在家者の総勢八名です。
この年、水俣病や四日市喘息などが大きな社会問題となっていました。公害の原因となっている煤煙や工場排水を排出している企業の経営者は、自社の責任を認めず、被害者の悲痛な訴えに耳を傾けることはありませんでした。それで多くの国民から非難を受けていました。このような状況下で結成されたのがこの僧団です。
名称から分かるように、この僧団は公害の元凶となっている企業主を呪法によって殺すことを目的として結成されました。メンバーは、真言宗、日蓮宗の僧侶と在家者、総勢八名です。メンバーたちは、呪殺と染めた幟(のぼり)を掲げ、行脚して複数の公害企業の門前で呪詛を行いました。
その結果、約一年後には複数の企業の社長や幹部が病気や事故、自殺で死に至ったといいます。発狂した者も出たといいます。
先に記した通り、呪殺は、明治初期であったなら、犯罪行為となりましたが、現代にあっては、法に抵触する行為とは認められていません。
その後、平成二十七年には、福島原子力発電所の問題と安全保障法制への抗議を目的として、公害企業主呪殺僧団の思想を継承した新たな僧団が結成されています。
明治初期に禁止され、処罰の対象となった呪詛が、現代社会で堂々と行われているのは、不思議な感じがします。
この呪殺行為にたいしては、多くの批判が集まっています。しかし呪詛が効くと本気で考えている人はわずかでしょう。実際に呪詛された者が亡くなったのは、単なる偶然だと大多数の人は見なしているのだと思います。呪詛はパフォーマンスに過ぎないが、それは倫理的、道徳的に許容されるものではないというのが、大多数の批判者の思いのようです。
わたしは、祈りには力があると認識しています。祈りは諸刃の剣で、実際に人を生かすことも殺すこともできというのがわたしの見解です。
呪殺祈祷は衆生救済の慈悲行であると言う人もいます。たしかにこの行為は、私利私欲によるものではなく、衆生の側に立ったものでありましょう。ですがわたしは、これを仏の説かれた理法から外れたものであると考えています。
本記事は、「ホントにさまざまな祈りがあります・その2」の続編と言ってよい内容です。いろいろな祈りがあると、つくづく実感します。
みほとけの心に適った真の祈り。それがどのようなものなのかを考えつ続け、わたしは、斉藤大法上人の唱題よる祈りに出会いました。そして今、真摯にこの祈りを行っています。。