体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

龍神さんだったのかもしれない その2

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スピリチュアルな世界では、龍神さんがブームになっています。龍神さんはお金や運気をもたらしてくれる。そう思って龍神さんを信仰している人は多いようです。

わたしも龍神さんが好きですが、現世利益を得るために龍神さんを拝むことはしません。財を運んできてくれる龍神さんもいると思いますが、人の物質的な願いに強く感応する龍神さんは、高い次元の龍神さんではないでしょう。

龍神は人間界の上に位置する天界に住していますが、一口に龍神と言ってもその霊性はさまざまです。人間界にマザーテレサもいればヤクザ屋さんもいるのと同じといってよいかもしれません。

龍神さんと親しくなったものの、その龍神さんが、ヤクザな龍神さんであったということは十分にあり得ます。世俗の欲望に翻弄されていると、そういうことになりかねません。

仏法を守護するために働いている、霊性の高い龍神さんを、わたしは身延山の松樹庵で感じました(松樹庵については「小さな弟子と身延山に参拝してきました その2」で紹介しました)。

1月17日の24時間お題目リレー中の斉藤大法上人との対座(二人が合掌、正座して向き合って南無妙法蓮華経を唱える修行)では、唱えるお題目が、力強く歌うようなお題目となりました。このとき、わたしは龍神さんと響き合っている感じがしました。

何の心の操作もせず、「南無妙法蓮華経」にすべてを委ね、一心に唱題をしていますと、唱えるお題目の声が変化することがあります。それは自己の心中に、ある時は修羅界、ある時は天界といったように様々な世界が映じ来て、それが唱えるお題目に表れるからです。

わたしが対座をしていると、向き合って唱題する大法上人には、供養を求める、たましいが表れました。大法師のお話によれば、わたしの唱題が仏ではなく天界の唱題であったので、そのたましいは、心地よさを感じはしたものの、十分に浄化して上がっていくことができなかったということです。

日蓮宗寺院では、龍神さんを祀るお寺が幾つもありますが、龍神さんを本尊とするお寺はありません。龍神さんをはじめとする高次の天界の神々は、あくまで仏の法を護る存在です。唱題時、わたしの心中に仏界が映ることで、はじめて真に、供養を受けたたましいは仏の世界へと上がることができるのです。

唱題中、自己の心中に天の世界が映ると、とても心地よいので、そこに留まっていたくなります。ですが、それでは唱題の修行は進みません。唱題で、自我の壁を超えますと、見えない世界と響き合いますが、一定の境地に安住していては、先に行くことはできないのです。

そこで必要になるのが観心(自己の心を観察すること)です。1月17日日の対座では、はからいを捨てて「南無妙法蓮華経」に心を委ねることはできていましたが、観心ができていませんでした。このことを省みて、昨日、唱題をしました。

この時も最初は、静かに歌うような天界の唱題となりましたが、観心をしていると、唱題が変わり、仏の世界を感じる深い響きの唱題となりました。

以上は、あくまでも現時点でのわたしの修行状況をお伝えしたものです。わたしは、日々、自分の未熟さを痛感しながら唱題しています。

多くの方々と一緒に唱題をしていると、それぞれの方が、自己の今在る位置で真摯に唱題する姿に、心打たれます。

「ただ唱題を聴いているだけで、心が癒されました」とおっしゃる方もいますが、これもまた素晴らしいことです。

唱題修行を続けていますと、心が深まり、変容していくことが実感されます。唱題修行はシンプルですが、大変に奥深い修行です。この修行に終着点はありません。

わたしは龍神さんに現世利益を祈るのではなく、龍神さんと共に、唱題修行をし、仏の世界に向かう道を歩んでいきたいと思っています。