体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

願望実現と仏道

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昔、あるところに「大麦小麦二升五合(おおむぎこむぎにしょうごんごう)という、おまじないの言葉を唱えて、エイヤッと気合をいれて病人を治している拝み屋のお婆さんがいました。霊験あらたかだということで、遠方からも病人が訪れていました。

ある時、お婆さんのおまじないの言葉を聞いた僧侶が、その言葉の誤りを正しました。

「お婆さん、それは、本当は応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)と言うんだよ。『金剛般若経』という経文の中の言葉だ」。

お婆さんはそれ以来、「応無所住而生其心」と唱えて病気治しをしましたが、おまじないは、さっぱり効かなくなってしまいました。

「応無所住而生其心」は、「まさに住する所無くしてその心を生ずべし」と訓読します。「何事にも執着することなく心を働かせよ」という意味です。

たしかに何かに心が縛られていると他のものが見えなくなってしまいます。執着が人の心を苦しめることがあります。何事についても、思い込んだり執着したりすることがなければ、心は広やかになります。

ですがいっぽうでは、執着、執念が願望を具現化させるということもあります。企業経営でも受験でも治病でも、ぜったいに成功させたい、絶に対勝ちたい、絶対よくなりたいといった強固な執念が大きな力になるということがあります。

強い執着が願いを具現化させるということは間違いなくありますが、執着し執念をもっても願望が実現しないこともあります。では、願望が成就する場合としない場合の違いはどこにるのでしょうか。。

その違いは、執念が確信に変わっているか、いないかという点にあります。先の拝み屋のお婆さんには「何としてでも他者の病気を治したい」という強い執念がありましたが、その執念は「大麦小麦二升五合」と唱えれば絶対に病気を治せる」という確信に変わっていました。

それが、僧侶に間違った唱え方だと指摘され、確信が崩れ去ってしまったのです。お婆さんが「このおまじないは効く!」という強烈な信を持っていたときは、病人がその信に感化されて病気が治ってしまうということがあったのでしょう。

「何物にもとらわれない」という心境に至った人で、その前段階で、執念を確信に変えて願望を成就させるという体験をしている人は、ことのほか多いのではないかと思います。

願望成就は、あくまでも物質的次元での話です。自己の内なる仏としてのの本質に目覚めるためには、執着、囚われから解き放たれることが必要です。

この世で中途半端な生き方をしている人には、「何かに執着してそれを確信に変えよ」とアドバイスをするのがよいように思います。人には「念ずれば花開く」と確信して努力する時期があってもよい気がします。ただしそれは、他者を傷つけないという前提のもとでのことですが(そうでないと、悪しき業を作ってしまうことになります)。

仏道は「念ずれば花開く」の先にある道です。そこには、この世の願いを叶える喜びをはるかに超えた大きな喜びがあります。