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勝れた仏教瞑想 ー日蓮聖人の法華三昧ー

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「優れた仏教瞑想 ー日蓮聖人の法華三昧ー」というタイトルを見て「それってどんな瞑想なの?」と興味を持たれたの方もあるのではと思います。

三昧(さんまい)は、瞑想を意味するインドの言葉「サマーディー」の中国語訳。法華三昧は妙法蓮華経法華経の正式名称)にもとづいた仏教瞑想です。

現代の瞑想の多くは、心の健康を得たり、仕事の効率を上げるために行われています。確かに瞑想でそのような効果を得ることができます。

しかし仏教の瞑想の目的はそこにはありません。その目的は仏と成ること。すなわち限りない慈悲と智慧そのものとなることにあります。まずこのことを明確にしておきたいと思います。そうしませんんと、仏教の「瞑想」が「迷走」となってしまいかねませんので。

法華経の文字は六万九千三百八十四文字(実際に数えたことはありませんが)。昔の書物を読むと、これをすべて暗誦(あんしょう)できた、持経者とよばれる法華経の修行者がいたことが分ります。ひょっとしたら、現代にも法華経のすべてを暗誦できる修行者がいるかもしれません。

天台宗の法華三昧は、法華経・観普賢経という経典を読んで真理を観ずること。また、その境地に達するために、法華経などを読誦(どくじゅ)することを言います。法華経全巻を暗誦できなくともよいのでしょうが、これもなかなか大変なことです。

日蓮聖人の法華三昧に入るのにも、法華経のすべてを暗誦できなくとも、スラスラと読めなくてはなりません・・・ということはありません。

昔は文字の読めない人がいましたし、法華経の教理がよく理解できない人も多くいたことでしょう。日蓮聖人の法華三昧は、そのような人たちにも開かれたものでした。

記憶力が劣っていても(現在のわたしがそうです)問題ありません。日蓮聖人の法華三昧は万人に開かれた道です。

さて、その実践ですが、それは、いたってシンプルなものです。たたひたすら南無妙法蓮華経とお題目を唱え続けるだけ。唱題が日蓮聖人の法華三昧です。

「なんだ、それならばわたしも日常やってますよ」そうおっしゃる方もあるでしょう。ですが、南無妙法蓮華経を唱えることイコール法華三昧ではありません。

妙法蓮華経は、法華経の正式名称ですが、それは単なる経典名ではありません。日蓮聖人は、妙法蓮華経は、永遠の仏陀のいのちそのもの、宇宙根源の法である言われれました。それと一つになるのが唱題による法華三昧です。

妙法蓮華経、永遠の仏陀と一体となって南無妙法蓮華経を唱えるのが日蓮聖人の法華三昧なのです。

初心のころ、わたしは五分の唱題も苦痛でした。長時間の唱題行ともなれば、それは我慢大会以外の何物でもありませんでした。慣れるにしたがってそのようなことはなくなりましたが、唱題中の思いは、作成途中の期末考査の問題と一体となったり、ビールと一体となったりしていました。

今は唱えると同時に、わたしが唱えるお題目は、わたしを通して御仏(みほとけ)が唱えるお題目であると感じられ、お題目は、はからいを超えて、腹の底から涌き出てきます。

法華三昧の唱題には深い浅いがありますが、それはどれも永遠の仏陀と一つになった唱題です。

さて、では三昧に入っていない唱題には意味がないのでしょうか。日蓮聖人は、妙楽大師という方の次の言葉を首肯されています。

「散心(心が集中できていない状態)でもよいので法華経を誦’(とな)えなさい。三昧に入って精神を統一する必要はありません。座る立つをえらばず、一心に法華を念じてさえおればよいのです」

ここで言う「一心に」は、「常の散漫心の一つとしての一心で」ということで、「統一された心で」という意味ではありません。「法華を念ずる」とは、法華経の一巻、一字、一句、題目などを、経文の文字数の多少に拘わることなく誦えることを言います。

この言葉は、唱題がどこまでも深まって三昧となることを否定しているのではありません。日蓮聖人は、お題目の修行は決して難行ではなく、どのような人をも受け入れ、救い取るものであるということを示されているのです。

お題目は、どのようなお題目でも尊いということであるのですが、日蓮聖人は、仏となるためには、以下の二点が肝要であると言われています。

*一念信解(いちねんじんげ)=仏の寿命が永遠であることをほんのわずかでも信解す     ること。

*初随喜(しょずいき)=法華経を聞いて随喜(心からありがたく感ずること)の心を 起こすこ。

この二つの心があれば、三昧には至っていない、初心のお題目を唱える人も、漏れなく御仏(みほとけ)の救いのなかに入っている。それが聖人の教えです。

唱題は精神の健康をめざすマインドトレーニングではありません。一念信解、初随喜の心を持ち、不自惜身命(自分の身体も命も惜しまない)で御仏を恋慕する心をもって、仏の世界に目覚めていくのが唱題の道です。

唱題によって癒され、やすらぎを得るのはすばらしいことです。ですが唱題はそこで止(とど)まるものではありません。その先に、永遠の仏陀と一体となる法華三昧の世界が広がっているのです。このような道筋を知っておくことも大切であると思います。

唱題が法華三昧となると、唱題で他者を、さらにはあの世のみたまをも癒し浄めていけるようになります。これは他の仏教の三昧とは異なった、日蓮聖人の法華三昧が持つ優れた特性です。このことについては、改めて別の記事で触れることにいたします。

4月17日、「世界を癒す24時間お題目リレー」で対談と唱題をしました。その様子は要唱寺のHPで視聴することができます。

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唱題はどこまでも深まっていきます。自分の唱題を顧みると、いつも未熟さを感じずにはいられません。精進してまいります。