体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

光を感じて生きる ー霊媒体質の方へー・その1

霊媒体質の方と一緒に修行したことがあります。南無妙法蓮華経を唱える唱題修行です。

霊媒体質というのは、決して精神の変調とか疾患ではありません。オープンにしている人は多くはありませんが、程度の差はあれ、かなりの数の霊媒体質者がいるのではないかと思います。かつて私は、勤務していた高校で、霊媒体質である生徒や同僚、校長と出会いました。

「霊など妄想である」そう考えている人を説得するつもりはありません。霊の存在を現在の科学では、肯定することも否定することもできません。

霊媒体質で悩んでいる方、苦しんでいる方の一助になればと思い、この文章を綴っています。

霊が勝手に身体に侵入することを、憑依と言いますが、憑依しやすい身体を持った人が霊媒体質者です。

成仏した霊が求めもしないのに勝手に身体に入り込んでくることはありません。不法侵入してくるのは未浄化霊です。

人間が許可もなく他人の家に入り込んだら家宅侵入罪で逮捕されます。ですが勝手に身体に侵入してくる霊を警察は逮捕してくれません。

自我が育まれていなくて弱い人が霊媒体質になりやすいという見方があります。肉体という魂の家の戸締りがしっかりできない人が霊媒体質者であると言ったらよいでしょうか。確かにそのようなケースは多いのですが、霊媒体質である同僚や校長は、しっかりと自我を確立していました。

その同僚や校長は、霊を感じても霊に翻弄されることは、ほとんどありませんでしたが、それは入り込んだ霊に、はっきりと「ノー!」と言えたからでしょう。

しかし、強度の霊媒体質の場合は、ノーと言っても、霊がずかずかと入り込んでくることがあるのです。わたしが一緒に唱題した霊媒体質の方はそのような人でした。

霊が入り込んだ霊媒体質者と僧侶が対峙(たいじ)した場合、僧侶は「悪霊退散!」と祈祷をすることが多くあります。ですが、わたしはそのような祈祷はしません。

イソップ童話の「北風と太陽」では、北風が強く吹けば吹くほど、旅人は身を縮めコートを脱ごうとはしませんでした。北風のように霊を排除しようとすればするほど、霊は意固地になって出ていこうとしないことがあるので敵対しないのです。強力な霊になると、僧侶をもてあそぶ場合もあります。

どのような未浄化霊も内に仏性(仏としての本質)を持っているというのが、法華経の教えです。わたしは未浄化霊と向き合う場合でも、対決はせず、その霊に内在する仏性を敬い、ただ御仏(みほとけ)と一つになる思いで読経、唱題をします。

すると、太陽のような御仏の光に照らされて、未浄化霊は浄化していきます。わたしが太陽なのではありません。御仏が太陽です。御仏の光に打ち勝つ闇の存在はありません。

霊媒体質の人に、わたしは「未浄化霊と闘うことは決してお勧めしません」と言います。御仏の器となって、いつも御仏の光に満たされて在ることをお勧めしています。光に満たされた器に未浄化霊が入り込む余地はありません。その光の器となるためにするのが唱題です。

次回は、霊媒体質の方と共に唱題修行をして生じたことについて記します。