体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

「間違いないっ!」にご用心 ーカルトの罠にハマらないためにー

「間違いないっ!」という決まり文句で一躍有名になった芸人さんがいました。

「お笑い」でこう言うのはよいとして、この言葉は、宗教家やカウンセラーなど、心を癒す活動、仕事をしている人は安易に使ってはいけない言葉であると思います。

「あなたは○○である。間違いないっ!」という言葉は、言われた人を縛り付けたり、洗脳したりする危険性があります。自己のカリスマ性を高めようとするなら、好都合な言葉であるかもしれませんが。依存傾向のある人は「間違いないっ!」と断言する人について行きたくなるようですので。

SNS上には「間違いないっ!」と表現しなくても、他者を○○だと断定、断罪する表現が多くみられます。

求められてもいないのに他者の投稿にアドバイスをすること。これを傲慢だと断定している人がいましたが、アドバイスは命令ではありません。余計なお節介であったとしても、アドバイスした本人に悪意がない場合もあります。これを「傲慢だ」と決めつける姿勢に危うさを感じます。

他者に対して「彼の傲慢な態度は間違っている」と批判することはあってもよいと思いますが、なぜそう感じたのか、具体的な理由を記さず、「過信って怖い!」と,その他者が傲慢であると断定している投稿を読んだこともあります。ここにも危うさを感じます。

傲慢である理由が明確ではないので、どう判断してよいかわからない投稿ですが、このような投稿に「イイネ」がたくさんついていることもあります。「イイネ」をつけた人たちは、「この人の言うことに間違いないっ!」と思っているのでしょうか。

先日、妻に「何て君は傲慢なんだ」と言ったら、「そう断定するあなたの方が傲慢なんじゃないの」と言い返されました。

わたしも他者に対して「間違いないっ!」と言い切ることを、しでかしているようです。妻ではなく、これを周囲の人たちに言い続けていたら、わたしは小島教の教祖になってしまうかもしれません。

わたしが信頼する聖職者やカウンセラーは、他者について、愚かか賢明か、傲慢か謙虚か、決めつけることはありません。もちろん自らについても「私が正しいのは間違いないっ!」とは言いません。

「正しいのは私。間違っているのは私を批判する人。批判者は悪魔。正しい私についてくれば間違いないっ!」。そのように説く教祖(その教祖は自らを救世主であると名乗ったりします)と、その教祖を「間違いないっ!」と支持する信者。この両者によってカルト教団が形成されていく気がします。

唱題によってもたらされる力は私の力ではありません。わたしを通してもたらされる御仏(みほとけ)の力です。このことを忘れて自我の力を誇示するとき、わたしは怪しい小島教の教祖になってしまうことでしょう(わたしにはカリスマ性がないので、信者はわずか数名かもしれませんが)。

身を引き締めて精進してまいります。