体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

目覚めるために

目覚めるのは、「お金儲け」でも「恋」でもありません。「真実の自分に目覚める」というのが、本記事のテーマです。

「あなたは誰か」と問われれば、普通、わたしだったら、こう答えるでしょう。

「1957年生まれ、65歳の男性です。元高校教師で今は僧侶をしています」

さらに詳しく、出生地、学歴、趣味や家族構成などを答えることもあるかもしれません。

しかし、これが本当に「わたし」なのでしょうか。これらは、すべてわたしのいのちに付随したものです。

人は入浴するとき、着ている物をすべて脱ぎますが、今並べてきたものは、着ている服や下着のようなものです。それらを脱ぎ去ったハダカの自分が本当の自分と言ってよいのではないでしょうか。

人は、この「わたしに付随したもの」を私自身と認識し、他者が身に付けているものと自己が身に付けているものを比較し、優越感を覚えたり、嫉妬したり、落ち込んだりしています。これが自我(エゴ)の働きです。

人は自我があるがゆえに苦しみますが、自我は必要なものでもあります。

自我がしっかりと機能してないと、他者の自我に浸食され、支配されることになりかねません。幼い子どもは自我が発達していないので無邪気ですが、大人になっても自我が未発達であるのは困ったことです。

いっぽう自我が強固になりすぎると、猜疑心が強かったり、傲慢になったりして、健全な社会生活を送ることが困難になります。

鎧(よろい)や服に例えられる自我の奥に、トラウマとかカルマと呼ばれるものがあり、自我はトラウマやカルマに衝き動かされることがあります。

さらにその奥にあるのが「真実の自己」です。これは如来の御いのちの一部分といったらよいのでしょうか、他者の自己と敵対したり競争したりするものではありません。心の最深奥にあっては、いのちはワンネスです。

仏教でいう「無我」とは、自我はいつかは消え去る幻想であるということを意味していおり、真実の自己が無いと言っているわけではありません。

この真実の自己に至る道が仏道です。禅の『十牛図』は、「真実の自己」に至るプロセスを十段階に分けて描いたものです。

さて、特に自らのトラウマやカルマに苦しむことなく、自我を健全に発達させている人は、その場で充足していますので、真実の自己に出会いたいという強い欲求を持つことは少ないかもしれません。

それはそれでよいのでしょう。死後も続く「たましいの旅」の旅程は、人それぞれに異なったものであるのですから。

ですが、今、苦しみの中にいるのであれば、自己の自我の在りように目を向け、自我を衝き動かしているトラウマやカルマを癒していくことが必要となるでしょう。

ここまでは、心理カウンセリングや心理療法の世界、癒しの道です。

仏道は、そこに留まることなく、さらにその奥に在る「真実の自己」に気づき、出会うための道、目覚めの道です。

三昧に入ってお題目を唱えていますと、お題目は腹の底から、こんこんと湧き上がってきます。このときの南無妙法蓮華経は、真実の自己(仏としての本質)そのものの発現と実感されます。

唱題修行。それは真実の自己に目覚めるための修行です。