体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

自我の壁を超える

「南無妙法蓮華経」をひたすら唱える唱題行の道を歩み始めると、ぶつかるのが自我(エゴ)の壁です。唱題行以外の仏道修行をしていても、自我は道の前に立ちはだかる壁となるでしょう。

自分を他者と比べて、劣等感を感じたり優越感を覚えたりするのが自我です。自我が強いほど自己主張も強くなり、人は自我があるがゆえに怒ったり嫉妬したり落ち込んだりします。いっぽう自我が脆弱だと、人に精神を侵食され、翻弄されたり支配されたりすることとなります。自我は「わたしという個」を守る働きもしています。自我は決して悪者ではありません。ですが自我が強すぎると、社会や人と敵対しやすくなります。自我は自己と他者が分離しているという感覚に基づいています。

唱題行は、ただ「南無妙法蓮華経」を唱えるだけのシンプルな行です。「南無妙法蓮華経」を唱えるのは子どもでもできることなのですが、自他を癒す深い「南無妙法蓮華経」を唱えるのは容易なことではありません。それは自我が壁となって立ちはだかるからです。

永遠の仏陀のいのちが自己の外側から与えられるのではなく、自己の内側から涌きあがってくることを実感するのが真実の唱題です。仏陀のいのち、仏性は自己に内在していますが、自我は「仏陀と私は分離している」という幻想を自己にもたらしています。それゆえ、自我が強固だと幻想に絡められ、御仏(みほとけ)のいのちが涌出する唱題をすることができません。

幼少期に親から「お前はダメな子だ」と否定されてきた人が、自己に仏性があるということを信じるのは至難なことです。いじめられた経験のある人は、向き合う人がどのような人であっても仏性を持っているということを、なかなか信じることができません。物質中心主義の現代にあっては、目に見えない仏が実在するというのを信じることも簡単にできることではありません。

だれにでも仏性があるということへの信と、御仏は厳然として存在し、わたしたちを慈しんでいるということへの深い信がないと、自我の壁は破れず、唱題は深まっていかないのですが、自他の仏性と仏への信を持つのは大変に難しいことです。

特に、過去(前世も含めて)に虐待やいじめを受けていた人が、この信を持つのは容易なことではありません。ではどうしたらこの信を持つことができるのでしょうか。

全身全霊、命がけで唱題をすることによって自我の壁は打ち破ることができる。それがこの問い対する答えであるのですが、これも「言うは易し。行うは難し」です。

わたしは僧侶として唱題行を実践し、また指導させていただいてきて、どうしたら自我の壁を超えることができるのかを模索してきました。そして今、唱題の前行として丹田呼吸を行うのもよいのではないかという思いに至りました。これは自身の体験を通しての思いです。

丹田呼吸と腹式呼吸は同一視されることがありますが、わたしの言う丹田呼吸は、腹部が吸って膨らみ、吐いてへこむ腹式呼吸ではありません。また吸って腹部がへこみ、吐いて膨らむ逆腹式呼吸でもありません。ここで詳述はしませんが、関心のあるかたはお問合せください。これは気功家の城井孝師が指導されている丹田呼吸です。

わたしは、臍(へそ)の下、約9センチの内部にある丹田は、この世と御仏の世界とが交わるメビウスの輪のようなものではないかと感じています。表側がいつのまにか裏側になっているのがメビウスの輪です。表側というのは裏側の正反対ではなく、裏側に連続しているという不思議を示すのがメビウスの輪です。

わたしは唱題をしていると臍下の丹田から御仏のいのちが自ずと涌出してくるのを感じます。この世が表側で仏の世界を裏側だとしたら、この両者は対極にあるのではなく繋がっていて一つであると言ったらよいのでしょうか。唱題行によって、そのような感覚を得ています。丹田呼吸はこのことを実感する手立てになるのではないかと感じています。

これはあくまでも、わたしの独自な思いです。ですが丹田呼吸によって、自我に翻弄されず、心が平安になり、他者に左右されない、ぶれない中心軸が形成されることは、城井師の指導が実証しています。

丹田呼吸は、自我の壁を超えるために有効で、唱題修行の基盤となり得るものではないかと思っています。

真の唱題修行は自我の壁を超えたところから出発します。