体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

世界と敵対しない在り方

この世は争いに満ちていて、虚偽が横行しています。このことに「そんなことはない」と反論する人はないでしょう。

何千年も前から、戦乱が止んだことはありません。周囲を見れば、虐待やいじめを受けている子どもがいて、振り込め詐欺に騙されて泣いている高齢者がいます。実際、わたしの亡き母も振り込め詐欺の被害に遭いました。

権力を振りかざし、民衆のことを考えない残虐な海外の為政者に憎しみを感じている人は多いでしょう。人々を騙して大金を得ているカルト教団や、そのような組織とつながっている政治家に怒りを感じている人も多くいることと思います。

人々を平気で傷つけたり騙したりする人物や組織に対して、黙認していてはいけないというのは言うまでもありません。そのような組織や人物にキッパリと「NO!」という声を上げることは大切です。

ですが、そこに怒りや憎しみの感情を持ち込むのは賢明なことではありません。怒りや憎しみを持って相手を制しようとすれば、相手も同様に怒りや憎しみを持って立ち向かってきます。

まず、何よりも大切なのは、自己の内面の平和を確立することでしょう。内面が平和になると、間違いなくその平和は周囲に及んでいきます。といってもこれはそう簡単なことではありません。

社会の不正について怒っている教え子とたくさん出会ってきました。

彼女が痴漢被害に遭った男子高校生から「オレは痴漢を絶対に許しません!痴漢撲滅協会を設立しますので、先生、会長に就任してください」と言われたことがあります。これは可愛い例です。

収賄事件など社会の不正について、いつも怒りをあらわにしている、社会人となった男子の教え子もいました。彼は、いつも「不正に怒っている正しいオレ。欺瞞に満ちた間違っている社会」というスタンスで生きていました。

わたしは、このような若者に、ストレートに「まず内面の平和を確立しよう」ということは、ほとんどありません。

それはこのような若者は、自己の内面の愚かさや醜さと向き合うのが怖かったり、あるいは幼少期に親から愛されなかったが故に承認欲求が強かったりして、外側の世界と敵対していることが多いからです。

このような若者(若者に限りませんが)は、まず内面の平和を確立する前に、癒される必要があります。このような人には、縁があれば共に唱題をして、御仏(みほとけ)の絶対的な慈愛の中に包まれる体感をもってもらうようにしています。

唱題が深まってくると、御仏のいのちが腹の底から涌出してきます。すると、すべては御仏のいのちであるという思いに満たされ、自分と世界が一如となります。そこに敵対する世界や他者はありません。絶対的平和の世界が立ち現れるといってもよいかもしれません。

もちろんそうなっても、変わらずに争いや欺瞞に満ちた世界は存在しているわけですが、「その世界も私の内に在る」という感覚になります。「なに、わけのわからないことを言ってるの」と思う人は多いでしょう。世界が我が内にある・・・。理性では受け付けられない話です。これは、唱題三昧に入って得られる直覚智といったらよいのでしょうか。

唱題三昧というのは簡単に入れるものではありません(私は長年、唱題行をしてきて、ようやく三昧に入れるようになりましたが、それは未だ浅いものです)。

ですが、自己と世界、自己と他者を離別したものと見て敵対するのではなく、自他を一如と感じる在り方があるのだということを、まず頭の中だけでも理解しておくことは大切だと考えています。それはこの在り方こそが、究極の平和へと至る在り方だと思うからです。

唱題をして、どこまでも内なる平和を深めていきたい。そう思っています。