体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ⑦ お釈迦さまの目覚め・その4 ーこの世は、永遠・絶対の美しい世界だー

四苦八苦を乗り越えるため、人はさまざまな試みをしている。

20代の教え子が「会えばすぐにガミガミとボクに説教をする嫌な上司がいるんです」とグチをこぼしていた。まさに怨憎会苦だね。

彼は、頭脳明晰でスマートに仕事をこなす同僚がいて「どうあがいてもアイツには敵(かな)わないな」と落ち込むこともあるという。求不得苦だね。

この教え子は、仕事を終えると居酒屋に行って、酔って憂さを晴らしたり、カラオケで大声で歌ったりして、ストレスを発散しているという。

だが、朝、目が覚めれば「また憂鬱な一日が始まるな」と思うことになる。飲酒もカラオケも対症療法でしかない。

ときには自己啓発書を読んで奮起するのだけれど、長続きしないという。

あらゆる苦を根っこから断ち切る方法ってあるのだろうか。

「無理なポジティブ思考は逆効果です」、「人と比較してしまう癖をやめなさい」などと説く僧侶がいる。これは心理学的な苦の解消法と言ってよいだろう。世の人々に受け入れられやすく、効果もあるだろう。

だが、これは僧侶が言っていることではあっても、お釈迦さまの説いた根本の法ではない。

お釈迦さまの法は、簡単に人々に受け入れられるものではない。常識的な教えではないのだ。だから、それが一般の人たちに、幸せになるための方法として説かれることは、あまりない。

お釈迦さまの教えの真髄を説いた『法華経』にいのちを報じた日蓮聖人は、「苦に満ちた現実の世界を厭(いと)い離れて、美しいあの世を希(こ)い願いなさい」とは言っていない。

娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)。これに目覚めることによって、人は真に幸せになることができる。これが『法華経』の教えであり、日蓮聖人の教えだ。

娑婆は、耐え忍ばなければならない苦が充満したこの世。寂光とは常寂光土のことで、それは永遠・絶対の美しい世界を意味している。即とは「すなわち」、「そのまま」という意味だ。

「四苦八苦のこの世が永遠・絶対の美しい世界である」というのは、にわかには信じられないよね。

先に有為(うい)と無為(むい)の話をした。有為の世界とは、すべてが生じては変化し、やがては滅していくこの世界のことだ。いっぽう無為の世界とは、生じ変化することのない、つまり諸行無常を超えた、一切の苦しみに支配されない世界だ。無為の世界。それは、燃え盛る苦の炎の消えた、静謐な永遠・絶対の世界と言ってよいだろう。

日常「何もしないこと」を「無為」と言うけれど、仏教の「無為」は、そのような意味ではない。

無為の世界。それは寂光土のことだ。

いろは歌」は、苦に満ちた有為の世界を超えて無為の世界を目ざそうという歌だったよね。「目指す」というと「その世界を求めて遥か彼方まで旅をする」というイメージを君は抱くかもしれない。だが、そうではないんだ。

メーテルリンクの『青い鳥』はこんな話だった。

チルチルとミチルは幸せの青い鳥をさがして、さまざまな国々を訪ね歩いた。でも青い鳥はどこにもいなかった。そして、気づいたのだ。しあわせの青い鳥は、ずーっと前から、いつも自分のうちにいたのだ・・・と。

この話と同様、無為の世界は遥かなところにあるのではなく、こころの中、すぐ近くにあるのだ。それを求めて遠くに出掛けていく必要はない。ただ、このことに目覚めさえすればよいのだ。

『青い鳥』は「娑婆即寂光」を理解する手がかりになると思う。と言っても、「そうだったんですね!」簡単に納得できる話ではないよね。さらに突っ込んでこの話を続けることにしよう。