分別(ふんべつ)のある人。それは、理性で物事の善悪・道理を区別してわきまえることのできる人だ。幼児は分別がつかないが、君はもう分別のつく年齢になっているよね。もっとも大人でも分別のない人はたくさんいるようだが。
分別知、つまり分けて別にして違いを知る知恵によって、人は社会を形成してきた。分別知によって法律が作られ、分別知によって科学技術は発展してきた。
国語、数学などの授業は、分別知がなければ理解できない。「理解」の「理」には「分ける。区別する」という意味があり「解」には「切り裂く。ばらばらにする」という意味がある。教科の知識は分別知によって修得されるのだ。
「分別知って大切だな」そう君は思ったのではないかな。わたしもそれに異論はない。だが兼好法師の『徒然草(七五段)』には、こんな文がある。
「分別みだりに起こりて、得失やむ時なし」
「人と関わっていると、ああだろうかこうだろうかという分別心がわけもなく起こり、損をしたか得をしたかという計算が止む時がない」
そんな意味のことを兼好さんは、書いているんだ。
君が人間関係で悩んでいるなら、この言葉が身に染みるのではないかな。
さらに兼好さんは、この心の状態について「酔ひの中(うち)に夢をなす」、つまり「酔っている中で夢を見ているのだ」と書いている。,これは「いろは歌」の「浅き夢見じ酔ひもせず」を踏まえているのだろうね。
分別が人を苦しめるということもあるのだ。
分別する知恵が、科学技術を発達させ、わたしたちはその恩恵を蒙(こうむ)ってきた。だがこれは諸行無常、「有為の奥山」の世界でのことだ。
科学技術は原爆を生み出し、わたしたちはその脅威に晒(さら)されてもいる。これからも、戦争と平和は繰り返されるのではないかな。
わたしたちは、有為の世界の中で分別知を持って生きてきた。その結果、高度な科学文明の中で快適な生活を手にすることができた。だがそれはいつ失われるか分からない危ういものだ。
この有為の世界しか知らないというのは、一階が火事になっている家の二階の部屋で、そのことを知らずに遊んでいる子どものようなものだ(この譬喩は『法華経』の中にある)。
お釈迦さまはこのことに気づいたのだ。そして菩提樹下で四九日間、瞑想を深めて、分別知による有為の世界を超えて、無分別智による無為の世界に目覚めたのだ。
無分別智とは「見えないところでは、すべてはつながっていて一つ。いのちはワンネスである」ということを知る智慧だ。「娑婆即寂光」は無分別智によってはじめて自覚できるものなのだ。
無分別智,、無為の世界は、三法印の二つ目、「諸法無我」と深く関係している。つぎにこのことを話そう。
なお、分別していきているこの世界のチエは「知恵」、お釈迦さまの無分別のチエは「智慧」と表記されることが多い。わたしも「分別知」、「無分別智」と「チ」の字を区別して書き表している。