体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ⑭ 仏となるための南無妙法蓮華経

日蓮が生きた鎌倉時代、仏教の深い教理を理解できたのは、ごく限られた知識ある者のみだった。それゆえ、『法華経』を読むことすらできない庶民のために、日蓮は、南無妙法蓮華経を唱えさえすれば救われるという単純な教えを説いたのだ」

このようなことを書いている社会学者の文章を読んだことがある。実際多くの知識人たちは、このように考えているようだ。現代の知識人は、中世の、知的な理解力のない民衆が、仏教の深遠な教えを理解するのは不可能だったという見方をしているのだろうね。

私自身、『法華経』と出会ったばかりのころ、『法華経』の内容をよく理解できないままに、ただ南無妙法蓮華経と唱えても、法華経の心を掴むことはできないだろうと考えていた。

「南無妙法蓮華経」は、「妙法蓮華経の教えに南無します」という意味だ。「妙法蓮華経」は『法華経』というお経の正式な題名。南無とは「信じてその教えに自らを預け入れます」という決意だ。

「『法華経』の内容をよく知りもしないで、『法華経』に南無しても意味はないんじゃないの」

わたしはそう思って、南無妙法蓮華経を唱えることをせず、『法華経』の現代語訳を傍らに置いて、ひたすら『法華経』を読んでいた。

これは、今思えば、学校の勉強、学問と同様の分別知によるアプロ―チの仕方だった。前に話したとおり、お釈迦さまの目覚めを得るのには、分別知は無力だ。わたしは、日蓮聖人の御遺文(書き遺された文章)に触れて、はじめてこのことに気づいた。

日蓮聖人は『四信五品鈔(ししんごほんしょう)』という御遺文につぎのように書いてる。

「赤子が乳を飲むのに、その栄養素について知らなくても、赤子は自然に成長します」

赤子は、母乳の成分を知らなくても、一切、母親を疑うことなく、安心して無心に乳を口に含み、成長する。お題目を唱えるのも、それと同様で、「赤子のように、ただひたすら南無妙法蓮華経を唱えていると、自ずと仏になることができる」というのが日蓮聖人の教えなのだ。

「赤子のように」というのは、「疑いなく、信を持って」ということ。これがないと仏にはなれない。だから日蓮聖人は「仏道に入る根本は、信をもって最も根本とします」(『法華題目鈔』)と言っている。

『四信五品鈔』では、聖人はさらにつぎのように書いている。

「『妙法蓮華経』の五文字は経文の単なる題名ではありません。経文そのものを超えたものなのです。またこの五字が『法華経』全体の教義を意味しているわけでもありません。これは御仏(みほとけ)の意(こころ)そのものなのです。

その意(こころ)と一つになるための行、つまり仏となるための行がお題目を唱えるということだったのだ。

「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべき事もっとも大切也」(『日女御前御返事・にちにょごぜんごへんじ』)これが日蓮聖人の教えの要(かなめ)なのだ。

法華経』全巻の文字数は69,384文字(実際にわたしが数えたわけではないけれどね)。昔はこれを最初から終わりまでスラスラと暗誦できる行者がいたという。スゴイことだね。だけれど日蓮聖人は「それのいったいどこがスゴイのかね」と言ったのではないかと思う。

記憶力を競い誇るなら、それは現代の受験生と同じこと。それで仏になれるわけではない。仏になることが仏教の目的なのだ。

日蓮聖人は頭脳明晰で博覧強記の方であった。膨大な数の書物の内容が聖人の頭の中に収められていた。だが聖人は、そのことに価値を置いてはいない。

ただひたすら、全身全霊でお題目、南無妙法蓮華経を唱えて、仏となる道を歩むことを日蓮聖人は勧められたのだった。

日蓮聖人の唱えたお題目を三業受持(さんごうじゅじ)のお題目と言う。つぎにこのことを話そう。