体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ⑨ お釈迦さまの目覚め・その6 ーあなたは私であるー

教員時代、保護者との二者面談の時間、ある男子生徒のお母さんがこんな自慢をした。

「バーに勤めているんで、夜は子どもと一緒にいてやれないんです。でも私、ナンバーワンのホステスなんですよ」

後で、生徒に「君のお母さんはナンバーワンなんだそうだね。すごいな」と言ったら、彼は「母の勤めているバーにはホステスは一人しかいないんです」と、そっと教えてくれた。

それなら、どんな不愛想なホステスでもナンバーワンだね。

ナンバーワンというのは、複数の人と競い合ってなるもの。競争に勝っていちばんになり、優越感を持つこともあるけれど、圧倒的多数の人が競い合って傷ついた経験を持っているのではないかな。わたしもその一人だ。

大企業に勤務しているエリートサラリーマンの父親から「成績がいちばんでなければ、価値がない」と言われ続け、「ボクは価値がないんです」と落ち込んでいる生徒がいた。

その生徒にわたしはこう言った。

「ということは、生徒が100人いたとしたら、99人はは価値のない生徒だということになるよ。この世のほとんどの人間が価値のないことになる。君はホントにそう思うの?」

諸法無我の説明のとき、社員がいてくれて社長でいることができ、、妹や弟がいてくれてお兄ちゃんでいることができるという話をした。100人中の99人に支えられて、いちばんでいることができると表現することもできるだろう。

関係性の中で互いに支え合って生きているということを頭では理解していても、ほとんどの人は、他者と切り離された、硬い小石のように自分のことを感じているのではないかな。だから他者と比較、競争して、傷ついたり、時には他者を見下したりして生きている。

この、他者と切り離されているという意識から、イジメや虐待,、争いが起こるのだ。

諸法無我とは、一切は一切の影響を受けていて、独りで立つことのできる存在は無いということだ。このことにかかわって、仏教には自他不二(じたふに)という言葉がある。自己と他者は切り離された二つではないということだね。

平和な世界を樹立するために諸法無我を知ることは極めて大切だ。

だが実は、ここまでの話は自他不二の浅い説明なんだ。お釈迦さまは、もっと深い自他不二に目覚めたのだ。それは「あなたは、わたしである」、「すべてのいのちは、わたしである」というものだ。

「エッ、どういうこと?」そう君は思うだろう。わたしが歯痛で苦しんでいても君の歯は痛まない。たしかに、わたしと君は別の人間だ。

だが、お釈迦さまは、自他が離別しているというのは、分別知による見方に過ぎないことに気付いた。そして、すべてのいのちは、大いなる御仏(みほとけ)のいのちの顕(あらわ)れで、究極的にいのちは一つであると覚(さと)ったのだ。

一つ一つの波は、個々別々に存在しているけれど、すべて海とつながっていて、海と切り離された波はない。だが海という存在を自覚していなければ、大波が小波を見て、君はなんて小さい波なんだとバカにすることもあるだろう。

だけれど、波が海の一部だと知れば、大波は「君は私だったんだね」と言うだろう。

個々の波はわたしたち。海は「大いなる御仏(みほとけ)のいのち」。わたしたちは、本質的には全員が御仏のいのちそのものなのだというのが、お釈迦さまが目覚めた内容だ。

このことは分別知によって説かれた倫理・道徳では窺(うかが)い知ることはできない。釈迦は菩提樹下で瞑想を深め、無分別智によって諸法無我に目覚めたのだ。

このことによって、お釈迦さまは、失われることにない絶対的なやすらぎに至った。つぎにこのことについて話すことにしよう。