体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ⑬ 成仏・行と学の二つの道

こんな話を聞いたことがある。

高齢の女性が、ある大学の先生の「仏の慈悲について」の講演を聴いた帰り道でのことだ。

踏切を渡っている途中で草履の鼻緒が切れてしまった。彼女がしゃがんで鼻緒を何とかしようとしていると、警報機が鳴り始めた。

すると彼女をチラッと見て、足早に過ぎ去っていくスーツ姿の男性がいる。それは、さっきまで「慈悲の話」をしていた大学の先生であった。

その直後のこと。白いTシャツ姿の青年が彼女を見ると、彼女を背負って踏切を渡り、草履を直してくれた。

「応急処置だけれど、草履はなんとか家まではもつんじゃないかな。気をつけて帰ってね」

青年は笑顔でそう言うと去って行った。

彼女は心の中で青年に手を合わせ、しみじみと「今日の『慈悲の話』は、いったいなんだったのだろう」と思ったという。

どんなに滔々(とうとう)とブッダの慈悲について語ることができても、それは分別知の世界でのこと。慈悲に目覚めているわけではない。

白いTシャツの青年は、「仏の慈悲」について何も知らないかもしれない。だが、ごく自然に困っている高齢の女性に手を差し伸べたのだ。慈悲は知識からは生まれてくるものではない。

智慧に目覚めて仏になるというのに、学問は無力なのだ。学問は大切だし、それを否定するつもりはない。だが、仏になるということは、学問のずっと先にあることなのだ。

またそれは「優しさをもって生きることが大切です」と説く道徳教育のずっと先にあることでもある。「困っている人を助けなさい」という話は、親や先生から何回も聞かされていると思う。けれど、これを本当に実行できている人は少ないのではないかな。「仏の慈悲について」の講演をした大学の先生も、実行できていないうちの一人だね。

だけれど、室住一妙先生は「仏となれよ、今すぐに」と言われた。このことが可能だと学生たちにいつも語られていた。

先生にはこんな逸話がある。

先生の住居は、車が入ることもできない身延の山中にあり、先生は、文字通り、清貧な生活をされていた。そこにある日、一人の来客があった。あいにく帰り際、雨が降ってきたので、先生は来客に傘と長靴を貸した。

その後の雨の日のこと。先生は勤めている身延山短期大学に蓑(みの)を被(かぶ)って下駄を履いてやってきた。下駄は左右が別のものであった。

先生の家には、傘は一本しかなく、長靴はただ一つのまともな履物であったのだ。

欝蒼(うっそう)と草木の生い茂る雨の山道を、先生は濡れながら大学まで降りてきた。

先生の住まいで傘と長靴を借りた人は、自分より年上の先生の濡れた姿に仏を見て、涙をこぼして合掌したという。

「仏となれよ。今すぐに」と言う先生の言葉は、口先だけのものではなかった。

では、どうしたら仏となることができるのか。日蓮聖人は次のように言われている。

「行と学の二つの道に励みなさい」

日蓮聖人は決して学問を否定されていない。室住先生も真摯に学問の研鑽を積まれた方だった。だけれど、それだけでは、御仏(みほとけ)の智慧は身につかない。行が必要なんだ。

日蓮聖人は、さらにこのように言われている。

「行と学は信心より起こるのです」

形ばかりで信心のない修行では意味がない。学問も信心に裏打ちされたものでなければ、真の智慧とはなり得ない。そう聖人は言われている。

室住先生は強い信心を持って、行学の二道に励まれた方であったのだ。

さて、では仏となるための修行とはどのようなものなのか。このことを語ろう。