体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

閉眼と開眼ーいのちの豊かさー

「14歳の君へ」は⑬まで連載を進めてきましたが、今回はちょっとお休みです。

「60歳以上のあなたへ」といった趣の記事を書きます。

還暦を過ぎると、身近な人をあの世に送ることが多くなってきます。自分自身についても「跡を濁さずにあの世に旅立ちたい」と思うようになってくるようです

平均寿命が男女ともに80歳を越えている現代、「青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を言う」(サミュエル・ウルマン)ということで、青春を謳歌している高齢者もいらっしゃるかもしれませんが。

本日は、60代の女性のお住まいに、お位牌等の閉眼(へいげん)と開眼(かいげん)の供養に赴きました。

帰路、炎天下を歩いているとクラクラしてきたので、クーラーの効いているカフェに避難。肉体の衰えを感じました。

夏衣のわたしを見て「涼しそうですね」と言われる方があります。でもそんなことはありません。夏用であっても、襦袢の上に白衣を着用し、さらにその上に黒い衣をまとって、猛暑の中を歩いていると、帯紐まで汗でびっしょり。ワイシャツ一枚とは大違いです。

話が逸れました。供養について書きます。

供養を依頼された女性は、御主人が亡くなり、小さな住居に引っ越すこととなり、仏壇もその住居に合った小さなものに買い替えるとのこと。お位牌も複数あったものを「○○家先祖代々之霊位」のお位牌一柱にまとめたいとのとでした。

依頼者は古いお位牌の閉眼供養をし、新しいお位牌の開眼供養をすればよいのだろうと思っていらっしゃいましたが、閉眼、開眼はお仏壇そのものについてもする必要があります。また、ご本尊の掛け軸も新しい小さなものに替えるということでしたので、ご本尊についても、閉眼と開眼の必要があることをお伝えしました。

閉眼とは文字通り目を閉じること。何の眼を閉じるのかといえば、先祖やご本尊のたましいの眼です。これは、みたまを抜くことを意味しています。開眼はみたま入れです。

「木や紙でできている物の『目を閉じる』とか『目を開く』って、いったいどういうこと? 物にもたましいが宿るの?」現代人の多くはそう思うかもしれません。

実際、先祖のみたまは位牌の中に棲んでいるわけではありません。ご本尊は、宇宙本源の大生命と言ってよい存在で、掛け軸や尊像の中にただ収まっているものではありません。

ですが、読経、唱題をさせていただいていると、閉眼、開眼の供養が大切であることが実感されます。ご本尊やお位牌は単なる物ではなく、そこにいのちが宿っていることが感じられるのです。

いのちというのは個々切り離されて在るのではなく、響き合い、繋がり合い、重なり合っていると言ったらよいのでしょうか。南無妙法蓮華経を唱えていますと。御仏(みほとけ)のいのちは、わが身の外に在り、同時にわが身の内にも在ると感じられます。このような感覚は、知性で理解できることではないと言ってよいでしょう。

物に囲まれている豊かさではなく、いのちに囲まれている豊かさ。衰えていく肉体のうちに在るいのちの豊かさ。そのような豊かさを感じる心を、年齢と共に深めていきたい。今日の供養を終えて、そう思いました。

また、若い人たちにも、物質に満たされた豊かさではなく、いのちと共に在る豊かさを伝えていきたいと思っています。