体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

現実に立ち向かう祈り

夫から暴力を振るわれている女性から、「お題目(南無妙法蓮華経)を唱えてさえいれば平和な生活を取り戻すことができるでしょうか」と問われたことがあります。

わたしは「ハイ」とは答えませんでした。「ハイ、唱えてさえいればご主人の暴力は必ず止みます」と即答したとしら、わたしは仏教系カルト宗教の指導者になってしまいます。

荒れ狂う海のような厳しい現実に直面した時、人はただ耐えているのではなく、行動し前に進まなくてはなりません。夫から暴力を振るわれているのなら、きっぱりと拒否をすることが必要でしょう。それでも止まないのなら警察に相談することが必要でしょうし、場合によっては弁護士に相談して、離婚を決意することが必要になるかもしれません。

行動しなければ、困難な状況は打開できません。その状況に対峙(たいじ)せず、ただお題目の祈りをしてさえいれば状況が好転すると思って、祈っているのだとしたら、それは逃避です。

では祈りは無力なのでしょうか。決してそのようなことはありません。

嵐の中でお題目を唱えていて、すぐに嵐が止むということは、ないかもしれません。ですが、唱題をしていますと、横殴りの雨の中を大地に足を着けてしっかりと歩んで行こうという勇気が湧いてきます。腹の底からいのちの力が涌き出てきます。

日蓮聖人は、海中の岩に置き去りにされたり、斬首されそうになったりしながらも、お題目を唱え、弘教の道を歩むことを止めませんでした。その結果、『立正安国論』が鎌倉幕府に容れられることはありませんでしたが、後にお題目の教えは、日蓮聖人が育まれたお弟子方の弘教によって、大きく開花することとなりました。

日蓮聖人は、祈りと行動の人でした。そして自分に暴力を振るってくる人に対しても、憎むことなく合掌をされる方でした。

人は困難を与えられて成長します。お題目の祈りは、困難を生きる上で何よりも大きな力になると、わたしは実感しています。

辛い現実から逃げてただお題目を唱えていても人生は開けません。

困難が解決しての喜びというのはもちろんありますが、困難の中を妙法五字(妙法蓮華経)の光に照らされて唱題をしながら、ひるまずに歩む喜びというものもあります。これは大変に深い喜びであると、わたしは感じています。

「病気が治ったら唱題をします」という人がいます。そのような人に、わたしは病気の中で、その苦しみを味わいながら唱題することをお勧めしています。もちろん医師に相談するなど、しっかりと病気と向き合ってのことですが。

斉藤大法上人は次のように言われています。南無妙法蓮華経を唱えるというのは、まさにこのようなことであるのです。

「世間的な考えでは、病気が良くなり、健康体になったら高きに登ることができ光を受けることができる、ということになりますが、法華経は、そうした発想とは、まったく違う。病気や苦悩のままに重篤なカルマがあるままでも信じ唱えるなら、仏陀の慈悲の光に満たされ、それにより苦悩がなくなってゆくのです」