体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ㉕ ご本尊とひとつになる

信仰の対象として、お寺の本堂の中心に安置する仏さまの像を本尊という。

日蓮宗でも本尊として仏さまの像をお祀(まつ)りすることがあるけれど、日蓮宗の多くの寺院では、写真のような紙幅(しふく)をご本尊としてお祀りしている。これを十界大曼荼羅ご本尊(じゅっかいだいまんだらごほんぞん)という。

曼荼羅というのは、大宇宙の本質的なものを多くの神仏の配置によって表現したものだ。

十界大曼荼羅ご本尊には、中央に南無妙法蓮華経と大書されたその両脇に、たくさんの神仏の名前が記されている。

君の家が日蓮宗系のお寺の檀家で、家に仏壇があるなら、仏壇の中にも小さなご本尊が祀られているはずだ。仏壇は簡単にいえばお寺のミニチュアだからね。

十界大曼荼羅は、日蓮聖人がはじめて顕(あらわ)された曼荼羅だ。

中央の南無妙法蓮華経は独特の筆法で書かれている。字の先端が髭(ひげ)のように伸びているので髭題目と呼ばれている。これはお題目から放たれた光が十界すべてを照らしている様子を表しているんだ。

十界とは全世界のこと。このことについては後に話すことにして、ここでは十界大曼荼羅ご本尊とお題目との関係について話すことにしよう。

「『ご本尊さま、願いします』ってお題目を唱えたら、どんな願いも叶うのよ』

そうおっしゃるご婦人がいたけれど、ご本尊は、何でも願いを叶えてくれる魔法使いのような存在ではない。

南無妙法蓮華経を唱えるということは、ご本尊と自分との区別をなくすこと、救うものと救われるものの境界線を消すことなのだ。それはご本尊に自分のすべてを委(ゆだ)ね、明け渡すということだ。

これはご本尊の中に飛び込んで、ご本尊とひとつになることと言ってもよい。

この思いで全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えていると、身の内から南無妙法蓮華経が涌き出てくる。心の中に泉を見出し、そこからいのちの水がコンコンと涌き上がってくるのを感じる。

この涌き出るお題目を唱えることは、日蓮聖人が「これに勝る喜びがあるでしょうか」と言われたとおり、何ものにも代えがたい喜びなのだ。これは実践してはじめて分ることだけれどね。

このお題目を唱えるためのポイントについて、聖人は次のように書かれている。

このご本尊も只(ただ)信心の二字におさまっているのです。(『日女御前御返事・にちにょごぜんごへんじ』)

頭を捨てて、ご本尊を信じ切ってその中に飛び込んでいく。その信が深まれば深まるほどにお題目は涌出してくるのだ。

法華経』の「法師(ほっし)品・第十」に次のような譬え話がある。

喉が渇いて水が欲しくなり、高原に穴を掘って水を求める人がいたとする。渇いた土を見て、まだ水が遠いことを知るが、あきらめずにさらに作業を続けて、湿った土を見たなら、その人は水が近いと知ることとなるのだ。

全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えるというのは、まさに、高原で水を求めて穴を掘るようなことだと言える。

この作業を続けるのには「絶対に水に出会える」という信が必要だよね。信があやふやだと、途中で作業を止めてしまうかもしれない。

わたしたちは深い信を持った南無妙法蓮華経を唱えることで、御仏(みほとけ)のいのちに出会えるのだ。

お題目はどこでも唱えられる。ご本尊のある場所以外では唱えられないということは決してない。だがご本尊の前で唱えることには大きな意義がある。

十界大曼荼羅ご本尊は、万物を生かしている根源の大生命、お釈迦さまのいのちそのものだということを、ここで君にしっかりと伝えておきたい。だからこのご本尊をを目の前にして、全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えると、自身が妙法蓮華経の五字の光明に照らされて、全集中のお題目がが深まっていくことが実感される。

ということで自宅で唱題するときには、十界曼荼羅ご本尊を安置してその前で唱題することを、わたしはお勧めしている。

お仏壇中にご本尊がお祀りされている場合は、その前でお唱えするとよいだろう。