体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

お母さんの無分別智

今日は、最近六十代で亡くなった女性のお位牌の開眼法要に赴きました。

ご自宅の門前で、故人のご主人がわたしの到着を待っていてくださいました。その姿を見て、決して悪い意味ではなくて、わたしはちょっとビックリしました。

礼服を着用して黒いネクタイを結び、黒い革靴を履いて出迎えてくださったのです。

普通、位牌やお仏壇の開眼のために僧侶を自宅に迎えた場合、ほとんんどの方が平服(もちろんTシャツにジーンズといった出で立ちのことはありませんが)で参列されます。それが昨今の流れです。

今、このブログに「14歳の君へ」を連載しています。そこにわたしは、仏となるのに分別知は無力であると記しました。

ですが、分別知を全面的に否定しているわけではありません。この世を生きるために分別は大切です。

礼服を着用して出迎えてくださった男性は、分別のある方なのだなあと思いました。

心のありようというのは自ずと姿勢や服装に表れます。御仏と向き合う法要には、服装を正して参列するもの。そのように日本人は思ってきました。

そう考えることが、道理をわきまえているということ、すなわち分別のあることだというのが、常識だったのですが、その常識は変化しているようです。

カジュアル化が進む中で、まだこのような分別を持った方がいることに、わたしは心を打たれました。

開眼法要を終えた直後、参列されていた、92歳になる故人のお母さんは、こう言われました。

「法要前までは、遺影の娘の顔がなんか恐かったんです。それが今は微笑んで、優しい顔になりました」

これは、決してお母さんの思い込みではないと、わたしは感じました(ちなみに、お母さんは、しっかりとお話をされる、健全な頭脳を持った方です)。

法要中、唱題をしていますと、明るく開放されたような唱題となり、わたしの顔には、自然と笑みが浮かびました。故人は、死を自覚され、みたまが浄化されていったことを感じました。お母さんもこのことを感じたのでしょう。

死の直前には恐怖や苦しみが無かったようで、あの世に旅立つ心の準備もできていたことも感じました。

「この坊さん、適当なことを言ってるんじゃないか」そう思われることも覚悟して、以上のことを参列者にお伝えしました。お伝えするにあたっては、わたしには一切、霊感、霊能といったものはなく、唱題していると心の中の鏡に映じてくるものがあるのだということを申し添えました(実際、わたしにはなんの力もありません。すべては妙法、御仏の為せるわざです)。

参列者は、故人のお母さんとご主人の他に、故人のお兄さんと息子さんの四名でしたが、みなさん深く頷いてくださり、お母さんの「遺影の娘の顔が優しくなった」という言葉も素直に受け止めていらっしゃったようです。

分別知によっては、わたしがまっとうな坊さんか,口からでまかせを言っている坊さんか見極めるのは困難でしょう。わたしが語った内容と、死の直前の故人の様子が一致していたとしても、それは単なる偶然かもしれません。

わたしは全身全霊で読経、唱題をさせていただいているので、まあ、そのことで「この坊さんは、いい加減なヤツだ」とは思われなくて済んでいるのでしょう。

供養は、自我の能力、分別知を超えたところでなされるものですが、わたしは故人のお母さんの唱題に触れて、この方は分別知を超えていらっしゃるようだと感じました。

法要中、お母さんも手を合わせて南無妙法蓮華経を唱えていらっしゃいました。それは小さな声でしたが、願いも不安もなく、ただ妙法蓮華経と一つになっている無分別智による唱題であると感じました。

であるがゆえに、あの世の娘さんの「供養をしてくれて、ありがとう」という声を心で聴いて、写真の顔が優しくなったとお感じになったのでしょう。

他の参列者は分別心をもって、足のしびれに耐え、しっかりと法要に臨まれました。これも故人にとっては嬉しく、ありがたいことであったでしょう。

わたしにとっては、無分別智をもった92歳の女性と出会えた、ありがたい一日でした。