体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

供養をしなくなると・・・

昨日、孤独死した三十代前半の男性の供養を火葬場でさせていただきました。

男性は、小さな飲食店を一人で経営していたのですが、店で急死しました。発見されるまで時間がかかり、ご遺体は腐敗し、見るに忍びない状態だったといいます(供養当日、献花のためにお棺の蓋が開けられることはありませんでした)。

田舎に菩提寺があるようなのですが、故人のお母さんは、突然の息子の死で、深い悲しみの中にあって心の整理が付かず、とりあえず火葬だけはしなくてはならないということで、わたしが火葬炉に隣接する部屋で、供養の読経、唱題をさせていただくことになりました。

お母さんは、心の整理がついた後、改めて菩提寺の住職に供養を依頼し、遺骨はその墓地に納骨されるのでしょう。

心の準備がなく、突然亡くなった御霊(みたま)は、死の自覚がまったくなく眠ったような状態にあることがあるようです。

この男性もそのような状態にあるのではないか。そうではなかったとしても、あまりに早い死であったので、やり残したことがあって強い執着が残っているのではないか。重たい供養になるかもしれない。

そのようなことを思いながら供養に臨みました。

ところが唱題してみると想定外のことが起こりました、わたしの唱える南無妙法蓮華経は、唱えるとすぐに綺麗で朗々とした大音声の南無妙法蓮華経となったのです。

最初、暗くて重たい声の唱題が、最後に明るく澄んだ唱題となることはあります。それが突然死された御霊でありながら、この男性の供養の唱題は、最初から明るく力強いものとなったのです。びっくりしました。

炉の傍で供養した後、わたしは控室でご遺族にお話をしましたが、まずお母さんに「息子さんは心の綺麗な人だったのではないですか」と質問し、その後、供養の際に感じたことを幾つかお伝えしました。お母さんは、ハンカチで目頭を押さえて悲しみをこらえていて言葉を発することができない状態でした。ですが近親者は、「おっしゃる通りです。とても優しい子でした」と言って、深く頷かれました。

話を終えて「これで失礼します」と席を離れると、お母さんはわたしの後をついてきて、部屋の出口で「本日は本当にありがとうございました」とわたしに頭を下げられました(わたしは無力で、供養は本仏の力でなされるものなのですけれど)。

近年、直葬(「じきそう」とも「ちょくそ」とも読みます)が増加しています。葬儀もお別れの会もせず、直ぐに遺体を火葬場に運び、荼毘に付すのが直葬です。その際、火葬炉の傍で僧侶が読経することもありますが、それさえないこともあります。

今回の男性の場合は、遺族に供養しようという意志がありましたが、近年では故人に対して、その思いがまったくない人も増えています。

仏式の葬儀というのは、日本の一つの文化、儀礼だから、その形が変容していくのは当然のこと。直送はその変化の流れのなかにあるものである。

そのように語る識者もいます。

ですがご供養をさせていただいていて、供養、祈りの大切さを、わたしは痛感してきました。それは供養、祈りによって故人は死んだことを自覚し、その供養、祈りによって癒され、あの世で浄化していくと感じるからです。

浮遊霊とか地縛霊といった言葉があります。これをオカルティックな迷信だと考えている人もいます。ですが、そうではないと明確にわたしは感じています。

「物質がすべて。死後に残るものは何もない」。特にそう考えている人が亡くなり、供養がなされず、祈られることもないと、あの世でどうしてよいか分からず、未浄化なままで留まっているということがあるようです。

未浄化霊が増えると、その思いが現世の人に良くない影響を及ぼし、この世に問題が生じることにもなる。

そのようにわたしは感じています。

「葬儀は要らない」。そのように言い切る人もいますが、霊的な視点からいうと、供養や故人への祈りは、御霊を上げていくために、極めて大切なものであるとわたしは考えています。