体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

穏やかな法要でした

今日は、さいたま市の市営霊園で墓前法要を勤めてきました。

広大なな霊園墓地で、○○区○○列○○番というように数字でお墓の場所が示されています。墓所を見つけるのに少々苦労するかなと思ったのですが、今日は雨模様ということで、法要を営むお墓の前には、僧侶一人が入る大きな傘が立てられていて、それが目印となって、すぐに辿り着けました。

幸い、それまで降っていた雨は、法要中は止み、参列者も濡れることなく、ほっとしました。

今回の法要は、同じく令和三年に間を置かずして亡くなったご夫婦お二方合同の三回忌法要でした。

霊園や石材店を通して依頼される供養では、故人とのお付き合いはなく、ご遺族とも法要の場ではじめてお会いすることが、ほとんどです。今日の法要も同様で、故人お二人の歩まれてきた人生や人柄など、まったく存じ上げていませんでした。

ですが、読経、唱題後の法話で、まず、わたしはこう申し上げました。

「晩年を穏やかに仲良く過ごされたご夫婦だったのではないですか」

お題目を唱えていますと、目頭が熱くなってくるのです。それは故人お二人の、子や孫たちから供養を受けていることへの、感謝と喜びの思いからくるもののようでした。故人の満たされた穏やかな思いが伝わってきて、お題目の響きもそのようなものへと変化していきました。

故人の娘さんである施主さんは、わたしの言葉を受けて「おっしゃるとおりです。本当に仲の良い両親でした」と言われ、「やはりそうだったのだ」と得心しました。

そのあと次のように申し添えました。

「わたしは、霊能者ではありません。心の中の鏡に亡き人の様子が映り、それが唱えるお題目に表れるのです。わたしが意図的のお題目の声調を変化させているわけではありません。これはわたしの力ではなく、妙法の力であるのです」

参列者がどのような死後観をもっているかはお聞きしませんでした。また、一定の死後観を押し付けようという思いはありませんので、ただ、わたしの感じたことを率直に申し上げました。

墓前を去る際、故人の、十代後半の男の子のお孫さん二人が真摯な表情で、わたしにかけてくれた言葉、「ありがとうございました」が心に残った法要でした。