「すがる」に感じる違和感
東京の品川区でささやかな仏教の勉強会を開いています。メンバーのほとんどが、教員時代に勤務校で開催していた公開講座「教養としての仏教」の受講者です。
勤務校は公立高校でしたから、公開講座では、わたしが日蓮宗に所属していることを自ら明かすことはなく、一宗一派に偏らず仏教を俯瞰するよう心掛けていました。
ですが、修験道について詳しく触れなかったところ「修験道を軽く見ているのではないか」とお𠮟りを受けたこともあります。けっこう気を遣いました
現在は公立高校を退職し、仏教の勉強会では一僧侶としてお話をしていますので、自身の思うことを何の遠慮もなく語ることができます。参加者も自分の考えを自由に語り、談論風発して、楽しく仏教の学びを深めています。
昨日の勉強会では、日本史の参考書の鎌倉仏教に関わる記述に違和感を覚えたという話をしました。
一人の大学受験生の文系科目の面倒を見ている関係で、日本史の参考書を開いたのですが、そこには「阿弥陀仏にすがる浄土系の仏教」、「日蓮は『南無妙法蓮華経』という法華経の『題目』、つまりタイトルを唱えて法華経にすがることで救いがもたらされるとしました」という記述がありました。
浄土教についても日蓮仏教についても「すがる」という言葉が用いられてます。わたしは、日々、お題目を唱えていますが、「法華経にすがる」という思いで唱えることはありません。「すがる」のではなく、法華経と「ひとつになる」という思いでお題目を唱えています。
死後にお浄土に救済されることを願って阿弥陀仏におすがりするのが浄土教。そう思っている人は多いと思うのですが、わたしは、浄土教についても「すがる」という言葉を用いるのに違和感を感じます。
浄土真宗の篤信の信者を妙好人(みょうこうにん)といいますが、ある妙好人についてこんな話が残っています。
ある村人がお寺に参詣したとき、信心深いと評判の男がご本尊の阿弥陀仏の前で、大の字になって、いびきををかいて昼寝をしていた。村人は男を揺すって起こしてこう言った。「あんたを信心深い男だと思っていたが、ご本尊様の前で大いびきをかいて昼寝とはとんでもない!見損なった」
すると男はこう言った。「親さまの前で昼寝をするのが何で悪いんだ?」
子どもは親の前では安心して昼寝をします。赤子が母乳を飲むときは、無心にお乳を吸っています。その姿を見て母子一体と言ったりします。
妙好人の阿弥陀仏と向き合う思いは、「すがる」ではなく、「安心して委ねる。阿弥陀仏とひとつになる」と表現することができましょう。
「すがる」というのは「頼みとしてしっかりとつかまる。しがみつく」(『大辞林』)という意味ですが、絶対他力の親鸞聖人の浄土教にあっては「すがる」は自力になるのではないでしょうか。
親鸞聖人の教えに基づいて慈善活動をした九条武子という人は、次のような歌を詠んでいます。
いだかれて ありとも知らず われ反抗す 大いなるみ手に
この歌にも「すがる」という思いはありません。
「おすがり信仰」という言葉もあるくらいで、一般には「信仰とはすがるもの」とみなされているようです。実際に「お題目を唱えてご本尊におすがりすれば、どんな願いも叶うのよ」と言っている女性をわたしは知っています。
特に強い信心を持っていなくとも、お迎えが近くなってくると、お念仏やお題目にすがる人は多いようです。
仏教の勉強会のメンバーも「神仏にすがることによって安心感を得られるのが宗教なのではないか」と考えているようで、仏教の信仰と「すがる」の結びつきに違和感を感じてはいないようでした。
ですが親鸞聖人、日蓮聖人がお念仏やお題目にすがっている人の姿をご覧になったら「それは、ちょっと違うのだよ」とおっしゃることでしょう。現代の多くの仏教信仰は宗祖の教えとは異なっているようです。
「すがる」という言葉を用いて鎌倉仏教を解説する日本史参考書の記述。ちょっと気になりました。