体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ㉖ 十界は君の内にある

仏教では、全世界を低い次元から高い次元にいたるまで十の世界に分けている。この十界を低次元の世界から順に並べると、以下のようになる。

地獄界 餓鬼界 畜生界 修羅界 人間界、天界界 声聞界 縁覚界 菩薩界 如来

このうち地獄界~天界の六つの世界を六道と言い、声聞界~如来界の四つの世界を四聖と言う。

四聖は仏の世界だけれど、仏教は「衆生の多くは、そこに行けず、車輪が回転し続けるように、生きかわり、死にかわりして、六道をさ迷い続けている」と説く。このことを六道輪廻(ろくどうりんね)という。六道を輪廻することから抜け出して、仏の世界に行くのが、仏道を歩むということなのだ。

因みに地獄界は大きな苦しみと苦痛に満ちた世界、餓鬼界は飢えと渇きに満ちた世界、畜生界は本能に突き動かされて理性が働かない世界、修羅界は常に他者に勝とうとする闘いの世界、天界は苦悩の少ない清浄な世界だ。

言うまでもなく、わたしたちは今、人間界にいる。当然、他の九界は自分とは別のところにある世界だと思うよね。だが『法華経』を数多くあるお経中の最高位に位置づけた天台大師は、十界それぞれの世界に他の九界が具(そなわ)っていると説いた。このことを十界互具(じゅっかいごく)と言う。

中学生になる男の子のお母さんが病気に罹り入院した。男の子はお見舞いに行く途中、一軒の家の庭先にきれいな花が咲いているのを見つけた。そしてその花を、周囲に人がいないことを確認して、たくさん摘んで病床のお母さんに渡した。

この男の子の心の中には、母を想う優しい気持ちと、見つからなければ他人の物を盗んでもよいという自己中心的な思いが同時にあったということになるね。

花を摘むという単純な行為の中にもさまざまな心の世界が存在しているのだ。

わたしたち人間界の存在は、地獄界の住人になることもできる。これは戦争で多くの人が殺戮されてきた歴史を見ればわかることだね。

だが、いっぽうでわたしたちは他者を慈しむ菩薩界の世界の存在となることもできる。このことを「十界互具」は教えてくれる。

日蓮聖人は、「よくよく尋ねてみると、地獄も仏も我々の五尺の身体の内に存在する」(『重須殿女房御返事・おもすどのにょうぼうごへんじ)』と言われている。

南無妙法蓮華経を唱えるというのは、わたしたちの心の中にある仏の世界を顕(あらわ)していくことなのだ。

さらに言えば、あの世で地獄界や餓鬼界にいて苦しんでいるたましいの中にも仏界があるのだから、そのたましいに向けて南無妙法蓮華経を唱えれば、その光に照らされて仏界が顕れ、あの世のたましいも成仏できるということになるのだ。

十界互具の話をある所でしたら、「仏さまの心の中に地獄があるなんて信じられません」と言う人がいた。だが、仏さまが地獄と無縁だったら、地獄の住人の苦しみを理解できず、救うこともできないのではないかな。仏さまは、六道の世界をよくご存じだけれど、六道輪廻を超えているので、そこに落ちるということはないということなのだ。

兼好法師は『徒然草』で、友とするに悪(わろ)き者の一つに「病なく身強き者」をあげている。

兼好法師は強健な体の持ち主ではなかった。身体の苦しさを訴えることもあったけれど、身体が強健な人は、苦しんだ経験が皆無なので、兼好法師の苦しみを理解し、それに寄り添ってはくれない。だから「病なく身強き者」を友としたくなかったのだろうね。

仏さまの内には、病の世界、痛み、苦しみの世界、その他すべての世界が存在している。だから仏さまは衆生の側に立って衆生を慈しみ、仏の世界と導くことができるのだ。

わたしたちの心にもすべての世界が具わっているのだけれど、わたしたちはそのことに気づけないでいる。

昔の話だが「24時間戦えますか」というセリフの入った栄養ドリンクのテレビコマーシャルがあった。日本経済が上り坂の時、企業戦士と呼ばれる多くの人たちが、経済戦争の中で戦っていた。このような人たちは、人間界にありながら修羅の世界で戦っていたといってよいのかもしれない。

現代でも、人間界にいながら、修羅界をはじめとして、人間界以下の世界を心に顕している人がたくさんいると言ってよいだろう

地獄界も仏の世界もどこか遠くにあるのではない。わたしたちは今ここで、瞬時に地獄に落ちてしまうこともあり得る。いっぽう、今ここで、目覚めて仏となることもできるのだ。

南無妙法蓮華経を唱えるというのは、我が心の中の仏の世界に焦点を合わせて仏になるということなのだ。

前に室住一妙先生が「仏となれよ、今すぐに」と常に学生たちに言われていたという話をしたが、これはそのことなのだ。