体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

めんどうくさがり屋でなくなるには

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元旦、妻から「今年の抱負は何?」と訊かれました。

わたしは「頑張らないこと」と答え、狐狸庵山人(遠藤周作先生)の句を口ずさみました。

何事もする気はなくて寝正月

実際、本日、元日の午後、雑煮に餅を三つ入れて食べたら満腹になって眠気を催し、惰眠を貪ることとなりました。目覚めたら夕方になっていました。

年末はさまざまな所用に追われて疲れ果て、昨年の大晦日には、何もかもが、めんどうくさくなっていました。

わたしは、昨年の10月25日から毎日ブログを更新し続けて来ました。考えてみれば、そうしなければならない理由はどこにもありません。大晦日の夕刻、わたしは、正月はブログをお休みし、2022年は「ねばならぬ思考」を廃して、無理をするのをやめようと考えました。

それが、元日、昼寝から目覚めたら、年賀状をもらいながら、出していなかった人への賀状書きを始め、その後、依頼されている、お世話になったお上人の著作の編集作業に取り掛かり、今、21時30分ですが、正月は休もうと思っていたブログの記事を作成しています。

どれも強い意志を持って始めたわけではありません。どうやら、「しなければならない」と思うことをやめたことによって、「めんどくさい」と言う気持ちが消えたようです。

「ねばならぬ思考」を持っていると、「これをやった後には、あれをやり、もしそれができなかった時の対策としては・・・」と、次から次へと思考が涌いてきて、プレッシャーを感じるようになり、次第にめんどうくさくなってきます。

「できなくても、まっ、いいか」くらいに思った方が、諸事は、めんどうくさくならないようです。

「こうあらねば」という自己像を描いたり、「この苦しみから脱却せねば」と思っていると、唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)の修行は進みません。仏道修行においても「ねばならぬ思考」は不要のようです。唱題は、唱えている今に全集中することで、深まっていきます。

「囚われからの解放」は、仏教の大きなテーマですが、「ねばならぬ思考」は、囚われそのものと言ってよさそうです。

さて、このブログを継続していくにあたっても、毎日の更新にこだわらない方が、息切れがしないのではと思っています。また、一つの記事を読者に味読していただくために、次の記事まで、間を置いた方が好ましいのかもしれない、という思いもあります。

「書かなければいけない」と、「意志の力」や「やる気」で記事を書くのではなく、「涌きあがってくる思い」があるときに、その思いを文章にしていきたいと思っています。

記事にコメントをくださった方、メールをくださった方、その他、このブログの応援をしてくださっているすべての方々に、こころから感謝申し上げます。みなさまの思いが大きな刺激となり、力になります。

さて、これから近所のポストまで、寒気を楽しみながら賀状を投函しに行ってきます。

読者のみなさま、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

出会いと別れは、人間に限りません。

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先日、二人の女性と対座修行をしました。対座というのは、一定の距離をとって二人が向き合い、合掌、正座して唱題(お題目、南無妙法蓮華経を唱えること)をすることです。この時、比喩的に言えば、山頂にいる永遠のブッダに向かって、向き合っている相手と共に山を登って行こうという思いを持って唱題します。目は閉じず、相手の目もしくは眉間のあたりを見つめて唱えます。

テルミさん(仮名)と向き合って唱題していると、わたしの唱題の声は次第に大きく力強いものとなり、部屋いっぱいに響き渡りました。唱題時は自我の計らいは捨てており、唱題がどう変化するかは分かりません。その涌きあがってくるような力強さに圧倒されびっくりしました。

わたしは、テルミさんの背後に、強い意志をもった霊を感じました。これはあくまでもわたしの感覚ですが、その霊は、真剣にお題目を唱えたいという切なる思いを持っているように思われました。

テルミさんはかつて、今は休眠状態にあるお題目系の小さな新宗教団体に入っていました。その団体に縁のある霊の存在をあなたの背後に感じますと、テルミさんに伝えると、「そうかもしれません」と、彼女は肯(うべな)っていました。

テルミさんは、日々、真摯にお題目を唱えている人ですので、お題目修行をしたい霊と響き合ったように思われます

わたしたちは、自分が世界に放っている思いと相応した霊と、無意識のうちに響き合っているのです。

「私、結婚願望があるのですけれど、なかなかいい人と出会えなくて・・・。不運なんです。どうしたらよい人と出会えるのでしょうか」そう質問する女性がいました。

「別に不運なわけではありません。すばらしい人と出会いたいのなら、まず自分が愛のある、すばらしい思いを世界に放つ人になることです。あなた精神性が低ければ、精神性の低い人としか出会えませんよ」

そう、わたしはお答えしました。

わたしたちは、霊とも人とも、同様の波動を持つ存在と共鳴します。

憑依されるのが怖いと言う人がいますが、清らかで高い思いを放つ人に、憑依霊は取り憑いていることはできません。すべては自己の波動に帰着するのです。

対座の話に戻ります。もう一人の参加者、カズコさん(仮名)は、わたしと対座すると、複数回、ゲップが出ましたが、終了後、彼女は爽やかな笑顔で「なんだかスッキリとしました」と言いました。未浄化な霊が離れていくとき、身体に反応がでることがあります。ゲップは、彼女が浄化されていく過程で生じたようです。

対座唱題の過程で、テルミさんは好ましい霊との縁が深まり、いっぽうカズコさんは、親しくなりたくない霊とサヨウナラをしたようです。

縁が深まったり、縁が切れたりするその原因は、この世の人間であっても霊であっても、すべては自分の放つ思い、波動にあるのです。

出会いと別れが人生を織りなしますが、人生には、人だけではなく、霊との出会いと別れもあります。人にしても霊にしても、よき出会いを求めるのは決して難しいことではありません。よき出会いに相応しい思いを放つ自分になればよいのです。

自己の放つ思いがすべて。つくづくとそう思います。

 

 

 

 

願いを叶える秘訣は、願いを腹に落とすこと

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人に酷いことを言われて納得できない時の、怒りの感情をどう表現しますか。「腹が立つ」、「ムカつく」、「頭にくる」、「キレる」とさまざまな表現が思い浮かびます。

この質問を十代の若者にすると、「キレる」という答えが多く返ってきます。これは、少々困ったことだなあ、と思います

怒りを身体の箇所で表すとき、古(いにしえ)の武士は、腹で受け止めました。「殿(との)はご立腹でござる」などと言います。

新渡戸稲造は『武士道』に、日本人は、古来、腹には魂と感情が宿っているという信念を持っていると書いています。切腹をするのは、腹、すなわち魂が宿る場所を切って、汚れているのか清らかであるのかを見てもらうためだと新渡戸は言います。

「腹が座っている」という表現がありますが、怒りを腹で受け止めるとき、人は暴走することはありません。。

怒りを受け止める部位が身体の上に行けば行くほど、人は感情的になります。近年は身体の頂点である頭でも怒りを受け止められず、切れて爆発してしまう人が多くなっているようです。これは若者だけではありません。

先日、八百屋の店頭で、ミカンを手に取って、お金を支払わずに食べようとした男性の高齢者を見かけました。店主が「スミマセン。それは試食用ではありません」と注意すると、その高齢者は「客に文句をつけるのか、この店は」と怒りはじめました。いわゆる「逆切れする暴走老人」です。

最近は「腹のできた人」が少なくなっているようです。腹のできた人は、緊張をして上がることがありません。上がってしまったとき、何が上がっているのかというと、それは身体の重心です。腹のできた人、言い換えれば沈着冷静で何事にも動じない人の重心は、ヘソの下に落ちています。

合気道の達人、藤平光一は、「臍下(ヘソの下)の一点に心をしずめ統一せよ」と言い、平常時にも身体の重心を落として行動することが重要であると説いています。

弱いチンピラが「テメエ、やる気かよ」と言って身構えているとき、だいたいカカトが浮いて、アゴが上がっています。これは重心が上がっている時の姿勢です。姿勢をみれば、ケンカが強いのか弱いのかは、すぐにわかります。

さて、本記事のテーマは「ケンカに勝つ秘訣」ではなく、「願いを叶える秘訣」でした。

願いを成就させようとするとき、普通は頭で願いが叶った状況をイメージし、胸でそれを感じてワクワクします。それでオーケーなのですが、さらにその願いを腹で受け止め、腹に落とすことが願いを叶える秘訣です。

願いを腹に落とすと言うのは、重心をヘソの下に置いた状態で、願いを成就させようと決意し、叶った状況を受け取る覚悟をするということです。

部長に昇進したいと頭で願いつつも、部長となったことで生ずる責任の重さを、胸で不安に感じている人がいました。腹に落とすとは、不安も受け止めて、部長になる覚悟をするということです。

願いを腹に落とすと、おのずと願望成就に向かって力強く動けるようになり、状況はよき方向へと進展していきます。

腹式呼吸は、願いを腹に落とすための、よいトレーニングになります。その仕方については、このブログでも紹介しています。

実は、仏道修行をするにあたっても、仏になろうという願いを腹に落とすことが大切であるのです。

唱題(南無妙法蓮華経を唱える修行)をはじめる方に、わたしは、まず腹式呼吸のしかたと姿勢をお伝えします。その後、唱題が進み、唱題で癒されて平安を得た方には、腹で、仏としての自己に目覚める決意と覚悟をすることの大切さをお伝えしています。

 

 

 

 

豊かさってなんだろう

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東京都大田区の区役所職員で、福祉関係の仕事をしているsさんから、こんな話を聞きました。

ある日、役所に区民の女性から電話がありました。

「ここのところ隣のおじいちゃんの家の雨戸がずっと閉まったままなんです。呼び鈴を押しても、ノックして声をかけても応答がなくて・・・。足腰が弱っていて、遠出をした様子はないのですが」

Sさんは、その家に出かけ、通報してくれた女性と、雨戸を無理やり開けて、中に入ってみました。

おじいちゃんは、畳の部屋の食卓の前で倒れていました。すでに亡くなっていて、食卓にはメザシとご飯だけの質素な食事が載っていました。死因は栄養失調による衰弱でした。

身寄りのない人でしたので、Sさんは遺された物を整理することにしました。押入れを開けると、大きな缶が転げ落ちてきて、フタが空きました。中から出てきたのは、一万円札の束。一千万円以上の額であったといいます。

老人はふだんから、「信じられるものはお金だけだよ」と言い、人と交流することはほとんどありませんでした。銀行員も信じられないと言っていたそうです。食費まで切り詰めて押入れに貯金をし、お金だけと向き合って生きてきたのでしょう。

Sさんは「いったい豊かさとは何なんだろう、と考えてしまいました」と言っていました。

多額のお金を手にしてポツンと一人だけで生きる日々と、お金はないけれど、家族や仲間と向き合い、手を取り合って生きる日々。そのどちらが豊かな日々なのでしょうか。

衣食住のためにお金は大切です。ですが、本当に人に豊かさをもたらしてくれるものは、お金や物ではないでしょう。

仕事以外では、あまり人と交わらず、ウサギ一匹と暮らしている男性がいます、彼は「人間はウソをつくけれど、ウサギはウソをつかないからいい」と言っていました。人を信頼して裏切られ、心に傷を負ったことがあるようです。

対人関係が豊かさをもたらしてくれることがありますが、たしかに対人関係によって傷つくということもあります。ある人が「人との付き合いは、腹六分目くらいがちょうどよい」と言っていましたが、そのとおりかもしれません。

ですが絶対に傷つくことのない、まちがいなく豊かになる関係があります。それは永遠のブッダとの関係です。この関係が深まれば深まるほど、心は解放されます。また、深い安らぎと豊かさを実感することができます。

では、永遠のブッダとの関係性を深めるためには、どうしたらよいのでしょうか。わたしは、斉藤大法上人の提唱する唱題プラクティスを実践し、その深まりを実感してきました。この実践に興味のある方は、お問合せください。

 

 

 

 

 

 

イエスキリストの供養

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冒頭の写真は、イエスキリストの墓。この墓のあるのは日本です。冗談ではありません。青森県新郷村(旧、戸来村)にキリストの墓があるのです。戸来(へらい)というのは「ヘブライ」の訛りであるとも言われています。

エスゴルゴダの丘で処刑されて死んだと言うのは誤りで、密かに生き延びて、海を渡って青森の戸来までやってきて、この地で亡くなったという言い伝えがあります。戸来では古来、赤ん坊の額に十字架を書く習慣があったと言います。

にわかに信じがたい話ですが、さらに驚くべききことには、新郷村では毎年6月にキリスト慰霊祭が実施され、なんとそれは神道式で執り行われているのです。

十字架の立つ墓前で、神職祝詞を奏上し、獅子舞が演じられます。村の女性たちはナニャドラヤと呼ばれる、意味不明の名称の踊りをします。ナニャドラヤはヘブライ語であるとも言われています。

キリスト慰霊祭は、正しくはキリスト供養祭と言うべきでしょう。「慰霊」というのは、浄化しきれていない霊を慰めることです。牧師さんや神父さんは、神の子であるキリストに慰霊の必要はないと言うにちがいありません。キリストに慰霊が必要であると言うクリスチャンはいないでしょう。

いっぽう供養は、一般に「先祖の慰霊」の意味でつかわれていますが、本来、仏という尊い存在に対する敬い、感謝と帰依の心を表すものです。そう言った意味で、キリストの祭りは、慰霊というより供養といったほうが相応しい気がします。

神道式でキリストの祭りを行うので、「供養」ではなく「慰霊」という言葉を用いているのでしょう。

キリスト慰霊祭は、きわめて厳粛に執り行われていますが、はたして海外のキリスト教徒の目にはどのように映るのでしょうか。

本記事は「供養の国」の続編として記しましたが、この国の供養の文化は、本当に奥深いものがあります。

知人がマリア像を祀っているお寺があることを教えてくれました。隠れキリシタン聖母マリアに擬して観音を祀ったもの(マリア観音と呼ばれています)ではなく、真正のマリア像だそうです。それが本当かどうか、確認をしていませんが、この国では、そういうことがあってもおかしくはないと思います。

わたしは、供養(たましいの癒し)から目覚めへという道筋で、仏道を捉えています。供養には、亡き人の供養だけではなく、「自己供養」も含まれます。「自己供養」はわたしの造語です。みずからのたましいを癒すことから、仏道の歩みははじまるというのがわたしの持論です。

自他の魂を癒し、あらゆるいのちを尊び、仏を敬い仏に帰依する供養。この供養を大切にしていきたいと思います。

 

 

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供養の国

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慎ましい生活をしているイギリス人留学生の男子が、花屋で手ごろな値段の花束を見つけました。その日はガールフレンドの誕生日で、彼はその花束を購入し、プレゼントしました。

花束を手渡された日本人のガールフレンドは、笑顔で「ありがとう」と言ったかというと・・・そうではなく、絶句しました。その花は、お仏壇にお供えする仏花であったのです。

街の花屋で日常、仏花をよく目にします。都心部でも仏壇のある家はかなりあるのでしょう。仏壇に花やお菓子、果物などを供え、手を合わせる風習は、現代でも受け継がれています。

仏壇は本来ご本尊を拝む場所であるのですが、ほとんどの人にその意識はないようです。手を合わせる対象はご本尊ではなく先祖です。

仏教が伝来する以前から、わが国にには祖霊(先祖の霊)信仰が根付いており、それが仏教と習合したといってよいでしょう。

先祖を敬い大切にして供養する文化は、キリスト教圏の国にはありません。

日本には、先祖だけではなく、不慮の死や自死を遂げた他者の霊を供養する風習もあります。事故で死者の出た道端や踏切の端に、ビンに花が生けられていることがありますが、外国人にはその意味が分からないでしょう。。

最近はペット霊堂なるものもあり、ペットも厚く供養されています。僧侶がベットのための読経をすることもあります。

供養、慰霊を大切にする文化の中でわたしたちは生きてきました。この国の文化の中で亡くなった霊は、死後供養をしてもらえないと寂しい思いをするようです。欧米諸国の霊には、供養をしてほしいという思いはありません。あの世にも文化は及んでいます。

「ビックリするような供養もあります」でさまざまな供養を紹介しましたが、わたしは、つくづくと、日本は「供養の国」であると感じます。

ただ、供養が慰霊ではなく祈願になっていることもあるようです。「ご先祖様、どうか孫が第一志望の大学に合格しますように」と仏壇の前で祈っている、おばあちゃんもいます。微分積分や英文法が分からないご先祖様は、困惑していることでしょう。

先祖にするのは感謝と慰霊で、祈願ではありません。このことを、そのような人にお伝えする必要もありそうです。

昨日、母の一周忌の供養をしました。一族で墓前に参拝して、祖父母から、両親、わたしたち夫婦、息子たち夫婦、そして孫たちへと受け継がれていく、いのちの流れを実感しました。

滞ることなく、清らかに、いのちの流れが続いていくために、供養を大切にしていきたいと思っている日本人は多いでしょう。現代においても、この国には供養の文化が息づいています。

この文化がこれからも残るのかどうか、それはわかりません。供養の形骸化が気になります。これから、あたらしい文化が生まれる可能性もあります。それが、物質中心のものではなく、霊性に富んだものであることを祈らずにはいられません。新たな霊性文化を形成する活動をしていきたいと、わたしは考えています。

 

 

 

 

 

たましいの供養の実際・その2

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昨夜、唱題をしていると、わたしは、口から舌をチロチロ出しはじめ、30秒ほどそれが続きました。意識的に行っているわけではありません。まるでヘビのような動きです。気持ちのよい動きではありません。しばらくすると、今度はイヌが吠えるような声が出ましたが、これはすぐに止みました。そのとは、力強く、かつ穏やかで、内から涌き上がってくるようなお題目に変化しました。

こんなことを記すと、不気味がられて、友達を失いそうです。ですが事実を記すことにいたしましょう。

唱題中、意図しない動きや声の変化が生じることは、しばしばあります。おととしの十二月、斉藤大法上人に唱題のご指導をいただくようになってから、しばらくすると次第にこのようなことが起こりはじめました。

これは、わたしが霊媒となって憑依現象を起こしたわけではません。憑依とはどのような現象か、簡単に説明しましょう。

憑依を受けた霊媒は、他の霊の意識の侵入を受けて、自分の意識は追いやられるため、ボッとした状態になります。このような状態は、トランス状態とか入神状態と呼ばれています。

トランス状態が深まると、その時、自分がどのような状態であったのか、ほとんど意識できなくなります。トランス状態の霊媒が、生卵を幾つか飲み込み、意識が戻ってから、こんなことを言った例があります。

「私は生卵が大嫌いなのです。そのわたしが、そんなおぞましいことをしたのですか」

生卵は憑依した霊の大好物であったのです。

一方、唱題中、声や動きに変化が生じている時のわたしの意識は常にクリアです。清明な意識で自分に生じている動きを観察しています。その動きを止めようと思えばいつでも止められます。

自宅で唱題していて、大音声の唱題になることがありますが、妻から「近所迷惑です」と叱られてからは、声を絞って集中を深めていくようにしています。

大法師から、全身全霊で唱題をするように指導されましたが、そうすると声が大きくなってしまうのです。静かな声で全身全霊の唱題をするのは大変に難しかったのですが、最近はなんとかそれができるようになりました。

以上のことから、唱題時の声や身体の動きの変化は、憑依によるものではないことがお分かりいただけるでしょう。ではどうして変化が生じるのでしょうか。

「自己の心中の鏡に他者の心の姿が映ずる」そんな感覚をわたしは持っています。霊媒が未浄化霊を憑依させた後は、疲労感が残ります。生卵が嫌いな人が生卵を幾つも飲み込んだとしたら、その後味の悪さはかなりのものでしょう。

ですが鏡は、汚物を映しても、そのあとに花を映せば、一切、汚物の残像を留めません。ということで、動きが生じ終わった後、わたしの心身に止まるものは皆無なのです。

冒頭に記したわたしの舌の動きですが、これはヘビの霊が心中の鏡に映ったのでしょう。この日、何人かの人とお会いしましたが、その中の一人は、今まで指導を仰いでいた霊的指導者と決別した直後でした。わたしの感覚では、ヘビの霊は、その霊的指導者からその人のところに送られてきた霊であったような気がします。その後、犬の霊が映じましたが、これも、どなたかとつながりのある霊であったのでしょう。

ブログの記事、「憑依の実態」では触れませんでしたが、人霊だけではなく動物霊が憑依することもあります。動物霊は人霊が変化した姿だと言う人もいますが、ヘビやイヌといった動物の霊は実在し、それが人に憑依することもあります。

因みに稲荷神社の眷属である狐霊は、この世に肉体をもって生きた狐の霊ではなく、龍神などと同様の自然霊と呼ばれる存在です。

さて、心中の鏡に映じた霊はどうなるのでしょうか。わたしは、その霊が御仏の光に照らされて浄化されていくことを感じています。

全身全霊の唱題は、自己の計らいを超えて、未浄化霊の浄化を促す祈りとなっているのです。供養は、霊の慰霊と浄化の祈念と言い換えることができますが、全身全霊の唱題は、正にたましいの供養となっているのです。

この唱題は、永遠の仏陀のいのちと一つにな営為です。永遠の仏陀の光に満たされる祈りであるのです。霊媒は未浄化霊に自己を明け渡しますが、唱題者は永遠の仏陀にに自己を明け渡します。そこに未浄化霊が不法侵入してくる余地はありません。

全身全霊の唱題を行っていると、自己のトラウマと共に、自己に縁するたましいも自ずと癒されていきます。唱題は、自己の癒しであると共に、憑依霊を浄化する行為ともなっているのです。

唱題時に動きが生じたり声が変化したりするのは、本質的なことではありません。むしろそれを求めることは弊害となります。ただひたすら永延のブッダと一つになろうと意識して全集中の唱題をする。そのことで、あなたも、あなたに縁するたましいも癒され平安を得ることができるのです。

たましいの供養は、僧侶でなくてはできないものではありません。あなたが先祖に向かって全集中の唱題をすれば、間違いなく、先祖のたましいを供養したことになります。

僧侶の在家との違いは、自己と自己の家系を超えて一切衆生の癒しと目覚めを祈るのことにあります。

在家には、他者、他家のたましいの救済は求められていません。在家にとっては、自己と家族、わが身に縁するたましいが癒され、目覚めるための唱題をし、自己の生業(なりわい)で社会をよりよくしていくことが正道でありましょう。さらに他者を仏道へといざなうことは、慈悲行としてお勧めしたいことです。。

わたしの主催する勉強会で『法華経』を学び唱題体験をした一人の男性が、突然、腕が上がらなくなってしまったことがあります。無理に体を動かしたといったことはありません。とても元気な人です。原因は読経と唱題にありました。

男性は、法華経がスラスラと声に出して読めるようになったのが嬉しくなって、隣の家に出かけ「供養してあげよう」と言って、お仏壇の前で、読経し、お題目をあげたのでした。そのことで、隣家の未浄化な先祖の霊を負ってしまったようです。わたしは男性に他家の先祖供養はお坊さんに任せるようにお伝えし、男性を祈念しました。ほどなくして男性の腕は、もとに戻りました。

安易に霊的世界に関わるのは危険です。ですが、本当の唱題は、間違いなくあなたとあなたの家族、先祖を幸せへと導きます。

率直に言って唱題には、横道に逸れた唱題もあります。本当の唱題を体験してみたい方は遠慮なくお問い合わせください。

また、本気で出家を目指したいと言う方があれば、応援させていただきます。

唱題の道は、どなたにも開かれています。