冒頭の写真は、イエスキリストの墓。この墓のあるのは日本です。冗談ではありません。青森県の新郷村(旧、戸来村)にキリストの墓があるのです。戸来(へらい)というのは「ヘブライ」の訛りであるとも言われています。
イエスがゴルゴダの丘で処刑されて死んだと言うのは誤りで、密かに生き延びて、海を渡って青森の戸来までやってきて、この地で亡くなったという言い伝えがあります。戸来では古来、赤ん坊の額に十字架を書く習慣があったと言います。
にわかに信じがたい話ですが、さらに驚くべききことには、新郷村では毎年6月にキリスト慰霊祭が実施され、なんとそれは神道式で執り行われているのです。
十字架の立つ墓前で、神職が祝詞を奏上し、獅子舞が演じられます。村の女性たちはナニャドラヤと呼ばれる、意味不明の名称の踊りをします。ナニャドラヤはヘブライ語であるとも言われています。
キリスト慰霊祭は、正しくはキリスト供養祭と言うべきでしょう。「慰霊」というのは、浄化しきれていない霊を慰めることです。牧師さんや神父さんは、神の子であるキリストに慰霊の必要はないと言うにちがいありません。キリストに慰霊が必要であると言うクリスチャンはいないでしょう。
いっぽう供養は、一般に「先祖の慰霊」の意味でつかわれていますが、本来、仏という尊い存在に対する敬い、感謝と帰依の心を表すものです。そう言った意味で、キリストの祭りは、慰霊というより供養といったほうが相応しい気がします。
神道式でキリストの祭りを行うので、「供養」ではなく「慰霊」という言葉を用いているのでしょう。
キリスト慰霊祭は、きわめて厳粛に執り行われていますが、はたして海外のキリスト教徒の目にはどのように映るのでしょうか。
本記事は「供養の国」の続編として記しましたが、この国の供養の文化は、本当に奥深いものがあります。
知人がマリア像を祀っているお寺があることを教えてくれました。隠れキリシタンが聖母マリアに擬して観音を祀ったもの(マリア観音と呼ばれています)ではなく、真正のマリア像だそうです。それが本当かどうか、確認をしていませんが、この国では、そういうことがあってもおかしくはないと思います。
わたしは、供養(たましいの癒し)から目覚めへという道筋で、仏道を捉えています。供養には、亡き人の供養だけではなく、「自己供養」も含まれます。「自己供養」はわたしの造語です。みずからのたましいを癒すことから、仏道の歩みははじまるというのがわたしの持論です。
自他の魂を癒し、あらゆるいのちを尊び、仏を敬い仏に帰依する供養。この供養を大切にしていきたいと思います。
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