体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

如来への祈り

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高校一年生の教え子が、彼女と初デートをしたと報告をしてくれた時のことです。

「よかったね。で、何処に行ってきたの?」と訊くと、

「鎌倉です。兄が大学受験をするので、お寺で兄の合格も祈ってきました」とのことでした。

参拝したお寺の名を訊くと、何と安産祈願のお寺、大功寺(だいぎょうじ)でした。大功寺にお祀りされている産女霊神(うぶめれいしん)、通称おんめさまは、安産に霊験あらたかな神さまです。

教え子にはそのことは告げず「兄思いの弟で偉いなあ」と、ただほめました。

仏教の神々には、それぞれ商売繁盛、学芸上達、病気平癒、子育てといった得意分野があります。ですが如来にはそれがありません。

そう言ったら「如来オールマイティーなんですね。すごいです!」と感動した人がいますが、それは勘違い。如来は現世の利益を超えた存在です。如来はただひたすら、わたしたちが仏の身となることのみを願っていらっしゃります。

釈迦如来像の前で「どうか孫が志望校に合格しますように」と祈っているお婆さんがいました。「ご苦労さまです」とねぎらいましたが、内心では「ちょっと違うんだけどなあ」と思いました。

わたしの祈りの対象は、妙法、すなわち万物を万物たらしめている根源の法です。その人格的な表現が、法華経に登場する、永遠の仏陀、釈迦如来です。

法華経の後半では、生まれることなく滅することもない、永遠の仏陀の存在が明らかになります。妙法蓮華経の五字は、この永遠の仏陀のいのちそのものです。南無妙法蓮華経と唱える祈りは、この永遠の仏陀のいのち、すなわち妙法と一体になる祈りです。

遠い所にいらっしゃる永遠の仏陀(釈迦如来)を仰ぎ見るのではなく。永遠の仏陀と一つになる。それが如来への祈りであり、唱題である。そのような思いで、わたしは南無妙法蓮華経を唱えています。

わたしは唱題による世界平和の祈りをしていますが、妙法と一体になって唱題をしていると、わたしの自我が唱えているお題目ではなく、御仏(みほとけ)が唱えているお題目であるように感じられます。わたしではなく、御仏が世界平和を祈っている。そのように実感します。

如来への祈り。それは、わたしの自我が何かを願う祈りではないというのが、わたしの感覚です。願わずとも、南無妙法蓮華経の祈りをしていると、人々を仏の世界へ速やかに導き入れたいという御仏の願いの下、必要なことは自ずと起こってきます。

では、わたしが妙法と一つになってウクライナの安寧を祈れば、平和が訪れるのでしょうか。それはわたし一人の祈りでは無理でしょう。ですがこのような祈りをする人が、一定数に達した時、世界は真の平和に向かって大きく変容していくのではないかと感じています。

明日17日は、「24時間お題目リレー」で、この唱題による世界平和の祈りをします。パソコンやスマホの画面を通して、いっしょに祈ってくださる方があれば、心強く嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神さまへの祈り

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神への祈りは届くのか。この問いに答えるには、どのような神を祈りの対象とするのかを明確にしておかなければなりません。

仏教では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の、輪廻を免れることのできない六つの世界の頂点、天に棲む存在を神と呼びます。この神のことを天部の神々と言います。仏はその上の、輪廻を超えた世界にいらっしゃいます。子どもから「神さまと仏さまのどちらの方が偉いの?」と訊かれたら「仏さまだよ」と答えてください。

毘沙門天や弁財天、大黒天、鬼子母神などは、天部の神々です。龍神や稲荷神もその中に属します。天部の神々は仏法を守護する働きをしている存在です。

キリスト教イスラム教のような一神教の、天地を創造した唯一神を仏教では説きません。ですが法華経に登場する久遠実成(くおんじつじょう)の本仏、釈迦如来(永遠の仏陀)は、一神教の神と同様の存在としてイメージされることがあるようです。

さて、今回は久遠実成の本仏は置くとして、天部の神さまは祈りを聞いて くださるのか、というお話をしたいと思います。

結論から言うと、この神さまは、祈りを聞いてくれます。

稲荷神には仏教系と神道系の神があります。多くの人が狐霊を稲荷神だと勘違いしているようですが、狐霊さんは稲荷神の眷属(お使い)です。

最上位経王稲荷(最上稲荷)や豊川稲荷は仏教系の稲荷です(最上稲荷日蓮宗に、豊川稲荷曹洞宗にそれぞれ属しています)。仏教系の稲荷神はダキニ天と呼ばれる天部の神です。

神道系の稲荷神でもっとも高名なのは伏見のお稲荷さまです。伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)をはじめとする神々です。

仏教系、神道系にかかわらず、稲荷神を信仰して実際に現世的な利益を授かった人は、現代でも多くいます。「それって思い込みにすぎないんじゃないの」と言う人もいるでしょうが、内藤憲吾氏の『お稲荷さんと霊験譚』などを読むと、稲荷神の霊験がにわかに現実味を帯びてくることと思います。

わたしの身近には、稲荷神を深く信仰して大きく事業を発展させているT氏がいます 。

T氏は、自宅の敷地内にお社を立てて伏見稲荷大社の御分霊を勧請し、お祀りしています。数年前、大きな台風に遭ってT氏の自宅や周囲の家々が甚大な被害を被った際、不思議なことにお稲荷さまのお社だけは一切の被害に遭うことがなく、T氏はお稲荷さまの御稜威(みいつ)、すなわち大きな力を感じたそうです。

ただし、安易に稲荷神をお祀りすることはお奨めできません。T氏は京都から宮大工を招いてお稲荷さまのお社を立ててもらったのだそうですが、その時、宮大工さんから次のようなことを言われたそうです。

「お稲荷様は間違いなくご利益をもたらしてくれる。だけれど、中途半端にまつるのなら、やめておいたほうがよい。失礼を働いて怒りに触れると、いのちを取られかねないからね」

宮大工さんは、そのような実例をたくさん見てきたのでしょう。これは稲荷神そのもの怒りではなく、眷属の霊狐さんが、礼節をわきまえない信仰者にお怒りになるということのようです。

中には霊狐さんそのものを神さまとして祀っているケースもありますが、その場合はその神さまの怒りに触れないようにすることが肝要だということになりましょう。

このように書くと、「お稲荷さまって怖い!」と思われるかもしれません。ですがわたしはお稲荷さまより人間の方がよっぽど怖いと思っています。それは人間は他者を平気で騙すことがあるからです。信頼していた人に裏切られたといった例は枚挙にいとまがありません。

しかし、お稲荷さまをはじめとする天部の神々は、絶対的に信じれば、決して人を裏切ることはありません。

自分の妻のことを「山の神」と言うことがありますが、我が妻は文字通り、神さまです。信を置き、約束を守れば、わたしを裏切ることはありません。助けてくれます。しかしわたしが浮気心のひとつでも起こそうものなら、間違いなく、わたしのいのちは無くなるでしょう。しっかり祀ろうと思います。

お稲荷さまに限らず、天部の神さまは祈れば願いを聞き入れてくださいますが、神に依存をすると、自己のたましいの成長はストップしてしまいます。宗教や霊的世界には支配と依存の構造がはびこっています。この在り方に陥ることなく仏道を歩んでいこうと、わたしは自らを戒めています(僧侶の場合は、自分が神に依存することと共に、信徒を神や自分に依存させてしまう危険性もあります)。

真摯に仏道を歩んでいれば、ご縁のある天部の神は、願わずとも加護をしてくださるようです。わたしにも身近にご縁を感じる神さまがいますが、ご加護をいただいていることに感謝しています。

我が家の山の神からは、依存しようとすると「甘えるんじゃないわよ!」と間髪を容れずお叱りを受けます。ありがたいことです。、

仏教的に言えば、仏法を守護する天部の神々は、仏の世界に至るために修行を積んでいる存在です。稲荷神の眷属の霊狐さんも同じです。わたしはそのような霊的存在とともにたましいを磨き、時には助けられ、仏道修行に励んでいきたいと思っています。

霊主体従という言葉があります。

「この世を生きる目的は、仏の世界に向かって霊性を向上させていくことであり、身体にかかわる、この世的なことは、それに従属することである」それがこの言葉の意味です。

自分のお寺に勧請した稲荷神に現世利益中心の祈りをしていた尼僧さんがいました。それは霊主体従とは逆さまの体主霊従といってもよい祈りでした。祈っていて最初は順調だったのですが、次第にいろいろな問題が生じて困ったことになったそうです。そこで、尼僧さんは自分の祈りがおかしかったことに気づき、霊主体従の祈りに切り替え、問題を乗り越えたそうです。

この話は、尼僧さんの孫である僧侶から伺ったのですが、その僧侶はこう言っていました。

「天部の神を祀るのなら、まず何よりも高き仏界を目指して修行していくことが必要です。世俗的な欲望に流されるとダメになってしまいます」

世俗の欲望を募らせてではなく、窮地に陥ったときなどに真剣に天部の神に祈ることはあってもよいと、わたしは思っています。額に汗して働きながら、天部の神に祈るのなら、神さまはその祈りを受け取ってくださるでしょう。尼僧さんのお孫さんの僧侶も同様の考えをお持ちのようでした。

ただしその前提として、自ら立って、たましいを磨くという自覚と覚悟が必要である。そうわたしは考え、そのことを周囲の人にお伝えしています。

 

 

 

 

 

お知らせ・4月17日「世界を癒す24時間お題目リレー」で対談をします。

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今回はお知らせです。4月17日(日曜日)、わたしの修行の師、斉藤大法上人と対談をします。

下のYoutubeをクリックすると、わたしの顔と声が視聴できます・・・が、そんなことはどうでもよいことでした。大法上人のお話と二人の唱題(話の伝後に唱題しています)を聴いていただけましたら嬉しいです。

17日の大法上人のお話は、今の時期、大変に貴重なものになるだろうと考えています。

当日、以下の青字をクリックすると視聴できると思います。

24 hours Odaimoku offering to heal the world | Facebook

なお、これは後にyoutubeでも配信されると思います。

世界を癒す24時間御題目リレー 4/17

<はじめに :  世界を癒す24時間御題目リレー について この企画は、新型コロナウィルスパンデミックが起こって間もなく、インドネシア ジャカルタ 日蓮宗 蓮華寺のエルフィーナ・妙布 上人が発起人となって世界中の日蓮宗寺院に「世界を癒すために一緒に祈りましょう」と呼びかけたところ多くの参加者が現れ、2021年5月より、毎月行われています。

 要唱寺 担当分  4月17日  12:00ー15:00~ 

当寺院も初回から参加しております。今回は、以下のような演題にしました。これからも工夫を重ね、恒久的な世界平和が実現するよう精進して参りたいと思います。

・人は、なぜ祈るのか? ・祈りの効果と限界 ・祈りの限界を超える仏道  ・なぜ今唱題なのか?

① 斉藤 大法&小島 弘之祈りとは? 12:0013:00

② 僧侶による唱題   13:0014:00 

③ みんなで唱題~体験・感想・コメント  14:0015:00

 ↓予告編

 

 

祈りは効くのか

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祈りは効くのか。これは「人の意識は他者に影響を及ぼすことができるのか」と言い換えることもできるでしょう。

長男が幼稚園児だったころのことです。妻が長男について、「怪我でもしたのではないか、なんだか不安だわ」と言い出したことがあります。するとしばらくして長男が「ただいま」と元気に帰ってきました。

いつもならまだ帰宅する時間ではありません。その日は、たまたま幼稚園の都合で急に帰宅が早まったのでした。

長男は心の中で「お母さん、早くおうちに帰るよ」という意識を妻に送ったところ、心配性の妻は、その意識をそのまま受け取らず、息子は怪我でもして助けを求めているのではないかと誤変換してしまったようです。

人は他者から送られた意識をキャッチすることがあると感じている人は、少なからずいるのではないでしょうか。妻のように間違って受け止めてしまうことがあるのは、発する側の意識が強力でなかったり、思いを受け取る側の意識がニュートラルでなかったりするということがあるからだと思われます。

わたしの知人で、電車の中にぼっと立っている人の背中に向かって「うしろを向け!」という強い思いを送り、人を振り向かせることができる人がいます。百発百中ではありませんが、思いを送られた多くの人は、なんとなく振り向きたくなってしまうようです。

この意識の力について、科学的な研究がなされています。

医療ジャーナリストのリン・マクタガードは、著書『パワー・オブ・エイト』(ダイヤモンド社刊)で、10年にわたる科学的実験の結果、以下のようなことが分ったと記しています。

「集団で一人、あるいは一つのグループに集中して意識を送ると、強力な「力」が生まれ、病気を癒し、人間関係を修復し、戦争や暴力の発生率を下げることが可能だ。

しかし、実験中に発見された最も素晴らしいことは、意識を受け取った人だけではなく、送った人にも明らかな効果が見られたことだ」

「おうちに帰るよ」とか「うしろをむけ!」といった意識ではなく、「他者が平安になり癒されるように」という意識を送るのは、祈りといってもよいでしょう。

リン・マクダガードは、8名のグループをつくり、そのうちの1名が体調の悪い場合、他のメンバー全員が深い思いやりを持って同時に癒されるようにという意識を送ると、現実に大きな効果を得ることができると言っています。また、先に記したように、意識を送った人たちにもよい効果が及ぶとマクダガードは言います。

先に紹介したマクダガードの著作には、具体的で詳細な意識の送り方が示されています。興味のある方は実際にやってみてもいいかもしれません。メンバーの数は必ずしも8名である必要はないけれど、6人以上12人以下がお勧めだそうです。

これは宗教や神仏が介在していない祈りといってもよいでしょう。

これから科学は私たち人間が持っている意識の大きな力について、さらに解明をしていくことでしょう。マクダガード以外にも、意識の秘められた力を明らかにする研究をしている科学者は多く存在します。

「祈りは気休めに過ぎない」と考える人が多数派である社会は、変容しつつあり、祈りは新しいステージに入ったといってよいのかもしれません。

いっぽう、大いなる力をもった神と呼ばれる存在に自他の平安や癒しを請い願う、伝統的な祈りをしている宗教者、信仰者もたくさんいます。では、この神への祈りは効き届けられるのでしょうか。次回はこの点についてお伝えします。

 

 

 

 

 

人はなぜ祈るのか

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こんな道歌(仏の教えを説いた歌)があります。

みぎ仏左ひだりは我と合わす掌の奥ぞゆかしき南無の一声

「ゆかしき」は、「なんとなく心惹かれる。」、「懐かしい」といった意味です。古来、「右手は仏、左手は自分を表す」と言われてきました。合掌の姿は、自分が仏と一つになった姿です。

わたしは小さな子を持つお父さんやお母さんに「食事の時に手を合わせて、家族そろって『いただきます』を言う家庭に、非行に走る子どもは育たない」とよく言います。

食事のたびに、仏と一つになっていたら、非行に走る暇はないでしょう。

合掌して、怒ったり、人の悪口を言ったりしようと思ってみてださい。そのような気分にはなれないはずです。ことからも、合掌が尊い姿であることが分ります。

祈るとき、わたしたちは合掌をします。「祈る」とは、仏と一つになることであるのです。

ところが、多くの場合、人は仏と一つになるいうより、自己を仏より低い位置に置いて、仏を仰ぎ見て「仏さま、~が叶いますように」と請い願います。大多数の人は、祈りとはは神仏への「お願い」であると思っています。

今、わたしは僧侶となって、仏に請い願う祈りはしていません。合掌して妙法と一つになる祈り、すなわち唱題をしています。ですが、「お願い」の祈りを否定するつもりはありません。

大きな困難が自分の前に立ちはだかったとき、人は仏、或いは神に向かって「お助けください」と祈ります。人は救いを求めて祈らずにはいられない存在である。そう言ってもよいかと思います。それは、だれの人生にも越えがたい苦難というものがあり、それに直面したとき、人は、自己の非力さ、弱さを感じるからです。

わたしも幼い息子が大病に罹つたとき、自己の無力さを痛感しました。救いを求めて祈らずにはいられない人の気持ちはよく分かります。

初詣で家内安全を祈るレベルの祈りは、差し迫った危機的な状況のもとで、いのちがけでする祈りと比べたら、真に祈っているとは言えないかもしれません。

振り絞るような声で「お助けください」と全身全霊でする祈り。そのような祈りを、わたしは息子が病んだときにしました。

それは、仏に請い願うい祈りで、み仏と一つになる祈りではありませんでした。ですがこの祈りは、わたしが仏を求め、仏と直結していこうと願うきっかけになりました。この祈りの体験は、決して無駄ではなかったと思います。

さて、では実際に救いを願う祈りは、叶うのでしょうか。効果があるのでしょうか。

わたしが、息子が癒されることを仏に祈った結果、息子は治り、健康になりました。ですが、この祈りと治癒の因果関係を証明することはできません。

果たして神仏にお願いすれば、神仏はその願いを聞き届けてくださるのか。このことについて、次回の記事で記すことにいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

瞑想の真実

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「ね、なぜ旅にでるの?」「苦しいからさ」

こんな一節が太宰治の『津軽』にありました。

わたしも昔、苦しくて旅に出たことがあります。

コロナ禍で今、旅をすることが困難となっていますが、自宅にいて、お金をかけずに苦しみから解放される方法が流行しています。それはマインドフルネス瞑想です。

マインドフルネスを直訳すると「心が満たされている状態」となりますが、マインドフルネスとはつぎのような在り方です。

今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること。(日本マインドフルネス学会による定義)

わたしは運動神経が極めて鈍くスポーツが苦手なのですが、教員時代、男子バスケ部の顧問をしていたことがあります(優れたOBのコーチがいたので、なんとかやっていけました)。顧問として、試合前に選手にこんなアドバイスをしたことがあります。

試合中、自分がミスをして点差が開くと「あのとき、俺があんなプレーをしなければ」という自責の念にとらわれることがある。また、こちらが優勢で点差が開いていても、相手が追いついてくると、焦りや不安に駆られることがある。それではいけない。過去も未来も断ち切れ。この瞬間、自分がどのようなプレーをすればよいのか、今に集中しろ。

これは「マインドフルネスの状態でプレーしろ」ということです。

マインドフルネス瞑想は生産性を高めたり、スポーツや学習に集中するための手段として用いられています。実際、グーグルなどの大企業でマインドフル瞑想が導入されています。海外では学校教育のなかにも、この瞑想が取り入れられています。

マインドフルネス瞑想に関する書物は数多く出版され、この瞑想を教える教室もあります。瞑想ビジネスが成り立つ時代となっています。もし、あなたがこの瞑想に関心をお持ちなら、インターネットや書籍で簡単にその情報を入手することができます。

旅の話に戻りますが、苦しかったわたしは旅をしてリフレッシュして日常生活に帰りました。しかし少しするとまた苦しみも帰ってきました。旅によって苦しみ消すことはできませんでした。

苦しみを解消させるために、実際にマインドフル瞑想を行ったこともあります。たしかにこれは効果がありました。雑然として混乱していた頭の中が整理されてクリアになり、日常生活のなかでのパフォーマンスの質が向上しました。

マインドフルネス瞑想は、旅よりも苦しみに効く。そうわたしは感じています。

わたしたちは、子どものころから比較され、競争させられ、傷つき、ときには他者を傷つけながら生きています(そのような世界のなかで、わたしは教員として生きてきました)。

マインドフルネス瞑想には、比較されて傷つき、常にさらなる上を目指して頑張り続けている自我をクールダウンし、癒すはたらきがあります。

ですが、わたしは今、マインドフルネス瞑想ではなく唱題という瞑想を実践しています。それは、マインドフルネス瞑想では、顕在意識を癒すことができても、深層意識に潜むカルマやトラウマといったものを癒すことが困難であるからです。されに言えば、その奥に在る仏性(仏としての本質)に目覚めることもできないからです。

達磨大師(だるまだいし)が中国に禅という瞑想をもたらしたとき、達磨は時の皇帝から、禅にはどのような功徳があるのかと問われ、「無功徳」と答えました。「禅を実践しても何のよい事もない」と答えたのです。

皇帝の言う功徳、よい事というのは、国が護られるとか、経済的に豊かになるとか、病気が治るとかいった、この世的なメリットでした。禅という瞑想は、そのようなものを得るために行うものではない。そのようなこととは関係ない。そう達磨は皇帝に言ったのです。

釈尊の教えられた瞑想は、世俗的な何かを獲得するために行うものではありません。今ここに在って自己の内なる仏性を顕現するためにあるのです。禅も唱題もそのような瞑想です。

表面の意識が整理されクリアになることは、メンタルヘルス上、好ましいのは間違いありません。その結果、作業効率もあがるでしょう。それゆえ、企業はマインドフルネス瞑想を取り入れているのです。

いっぽう釈尊の瞑想は、あくまでも、この世におけるメリットを追求するものではなく、仏性に目覚めるためにあるのです。これは資本主義経済に寄与することはないのでビジネスにはならないでしょう。

釈尊の瞑想が寄与するのは資本主義社会ではなく世界平和です(言うまでもなく唱題もそうです)。自己の内なる仏性に目覚めた人の数が世界の総人口の一定数に達した時、世界は真に平和になるであろう。そうわたしは確信しています。

さて、わたしの周囲に、自己の仏性に目覚めるために唱題という瞑想を実践している人がどれだけいるかというと、そのような人はほとんどいません。

心身の両面で健康がすぐれない。対人関係がうまくいかない。生きていく上で不安がある。そのような苦しみから解放されたいという思いで多くの人が唱題をしています。

わたしはそれでよいと思っています。唱題について「無功徳」と言うつもりはありません。内なる仏性に目ざめる前に、自己を癒し平安を得ることが必要です。実際に唱題には心身を癒す力があります。

癒され平安を得て、内なる仏性に目覚め、自他ともに仏の世界を目指す菩薩となる。そのような道程(みちのり)を歩むのが唱題であると考えています。唱題は道である。そう思ってわたしは唱題を実践しています。

一つ付記しておきます。今、企業や海外の学校で取り入れられているマインドフルネス瞑想の源流は釈尊の瞑想です。それが物質中心主義の社会をよりよく生きるための手段となってしまっているということなのです。

 

 

 

 

 

無我ってなに? ー 心中の泉とつながる ー

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知識人と呼ばれる人でも、ほとんどの人が釈尊の説かれた「無我」を正しく理解していない。そうわたしは思っています。

広辞苑』で「無我」はつぎのように定義されています。

「我(が)の存在を否定すること。我は人間存在や事物の根底に永遠不変の実態的存在(アートマン)」

広辞苑』と双璧をなす中型国語辞典『大辞林』でも同じような定義がなされています。

わたしはこの「無我」の定義を肯うことができません。人間存在や事物の根底には永遠不変の実態的存在がある。実体がないのは自我である。そう仏道修行のなかで感じています。

自我というのは、地位、学歴、容姿の良し悪し、資産といったものによって規定される、他者と比較して優劣がつけられる「わたし」です。これらは死ねば失われてしまう実体のないものです。

なかには死んでもこれら実体の無いもの、すなわち自我に囚われ、しがみついている霊もいます(それゆえに供養が必要となるのです)。

真実の自己というものは永遠に失われることなく在る。そう言うと「あなたは仏教を理解していない」と言われかねません。国民的国語辞典の「無我」の定義を否定しているのですから(「霊」を認めている時点で、仏教者ではないと言われそうですが)。ですが少数ではあっても、わたしと同様のことを考えている仏教者もいるのです。

東京大学名誉教授のインド哲学者、前田専学氏は、ゴータマ・ブッダ釈尊)の教説について、つぎのような意味のことを「ゴータマ・ブッダとはどんな人か(『BOOK GUIDE 仏教入門』(法蔵館刊)所収)で述べられています。

ゴータマ・ブッダの教えにおいて、解脱する(目覚める)ということは、真実の自己を、真実のアートマンを見出すことである。その真実のアートマン、真実の自己は、いわゆる自我とかエゴとか言われるものではなくして、宇宙の根本原理ブラフマンと等しい、普遍的な自己である.。

「執着や我執の垢に塗れた自己ではなく、法、すなわち宇宙の普遍的な理法に合致する清浄な真実の自己」そのような自己の実在をゴータマ・ブッダは認めていたのではないかというのが前田専学氏の論です。

仏教の教説は変容していき、『広辞苑』に記載されているような「無我」の定義が定着していきますが、本来、釈尊は、前田氏が言うような「普遍的自己」を否定せず、認めていたのだと、わたしも思っています。

この「普遍的自己」のことを、わたしは「無我なるわたし」と呼んでいます。私たちは日常、自我が自分だと思っているけれど、自我の奥に在る「無我なるわたし」こそが、消滅することのない「本当のわたし」である。そのように感じています。「無我なるわたし」とは「自我は無い。自我はいずれは消えて無くなると明確に認識しているわたし」です。

自我は傷ついたり苦しんだりします。その自我としての「わたし」を癒す瞑想があります。ですが仏道における瞑想は、自我を癒すのではなく、自我を超えて「普遍的自己」、「無我なるわたし」に目覚めていく道であると感じています。

この「無我なるわたし」に目覚めていくと、心の中のコンコンと水が涌き出る、いのちの泉とつながり、永遠に渇くことがなくなります。涌き出る水は、みほとけのいのちです。

唱題は心中の泉につながる瞑想である。そのように感じ実践しています。