体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

エネルギー護身術・その1

人の想念はエネルギーです。ですが現代科学で証明されているエネルギーではありません。それゆえ、ある人に破壊的想念を放って、その念を受けた人が事故に遭ったとしても、傷害罪には問われません。いっぽうでは、励ましや慈しみの想念を受けた人が、元気になるといったこともあります。

新婚当時、山登りに行く、わたしたちたち夫婦のために義父がお結びを握ってくれたことがありました。料理とは無縁の義父が武骨な手で握ってくれた、形のいびつなお結びでしたが、とてもおいしかったので、妻と二人「なんでだろうね」とびっくりしました。愛念を込めて握ってくれたのでしょう。

知人が小さな中華料理店でチャーハンを食べた後、急に腹痛を催したことがあります。知人は、店主が奥さんと言い争いをしながら、厨房でチャーハン作っているのを目撃しており、その怒りの念がチャーハンに入っていた気がすると言っていました。

直接、自分に向けられた想念でなくとも、悪想念のこもっているものから害を受けることもあるようです。

息子が幼いころ、家族で房総を旅した時のことです。ペンションに宿泊したのですが、泊まる屋に入ってベッドを見たとたん、私と妻は、たじろいで顔を見合わせました。そのベッドには強烈な性的欲望の念が付着していたのです。

わたしたちは、知らず知らずのうちに他者の想念の影響を受けていることがあります。あなたが都会の人込みから帰宅するとドッと疲れるようなら、他者の想念について過敏体質であると言ってよいでしょう。

特に過敏体質でなくとも、職場や学校で他者から、嫉妬の念などを受けて心身を害することもあります。

わたしたちは、目に見えない電波と同様、想念が飛び交う世界に生きています。飛び交う想念は、人を慈しみ生かす想念より、ネガティブなものが圧倒的に多いようです。

日常、無意識のうちにネガティブな想念を発しているということもあります。親が子どもを思って心配する想念が子どもに悪影響を与えていることもあるのです。良かれと思って親が発している想念が子どもを縛っていたりします。

自分では気づかないうちに他者に嫉妬などのネガティブな想念を飛ばしていることもあります。

自己の想念をしっかりと管理することの大切さを痛感します。

さて、ではどうしたら他者のネガティブな想念から影響を受けずに生きることができるのでしょうか。次回はこのことについてお話したいと思います。

ちなみに、わたしは妻から「なんて愚かなの!」と罵倒されることがしばしばあります。ですが、わたしへの罵倒に悪想念は乗っていないようで、それは単なるカンシャクのようです。むしろ、わたしは妻の強い念に守られている気がします。とはいえ、わたしが妻に逆らえば、どうなるか分かりませんが。

前にも書きましたが、妻はわたしにとって、馬頭観音ならぬ罵倒観音です。

 

 

危険なスピリチュアルリーダーを見抜く方法

安倍元首相銃撃事件以来、カルト問題がクローズアップされています。

新宗教以外にも様々なスピリチュアルな団体、グループがありますが、かなり怪しい、カルトと呼んでもよいものが少なからずあるようです。

スピリチュアルというのは、日本語に訳せば「霊的な」という意味になりますが、現代では霊能者とか霊媒、祈祷師の世界だけではなく、目に見えない世界を扱う占い師や、場合によっては心理カウンセラーもスピリチュアルと目されることがあるようです。

学校では「平安仏教というのは真言宗天台宗で、その宗祖は・・・」といった伝統宗教についての知識は教えますが、宗教やスピリチュアルな世界の危険性について教えることはありません。

へたなことを教師が言うと、社会で問題視されている宗教に入信している親から「あの先生は、信教の自由を侵すトンデモない教師です」と校長室にクレームの電話が掛かってきたりします。

若いころ、私は過激な新宗教に入っている母親から「先生には、ぜひ私の信じる宗教に入信していただきたい」と勧誘され、困ったことがありました。

最近、伝統仏教のお寺に布教に来る新宗教の信者もいるという話を聞きました。ビックリです。

宗教、スピリチュアルな世界のリーダーの中には、もちろん良心的な人もいますが、安心できる人物だと思って相談に乗ってもらっていたら、気が付くと、その人物に支配されていたということもあります。

その人が危険なスピリチュアルリーダであるかどうかを見分けるコツをお伝えしましょう。

たとえあなたが心身の色々な面で問題を抱えていたとしても、上から目線でお説教をするのではなく、心からあなたを敬い、あなたに合掌する人であれば大丈夫です。

その人の話を聞き終えたあと、合掌して「ありがとうごさいました」と言ってみてください。その人物もあなたに合掌すれば、あるいは合掌をしなくてもあなたに謙虚に頭を下げるなら大丈夫でしょう。

満足そうに頷いて「私についてきなさい。そうすれば救われます」といったようなことを言う人物であるなら要注意です。

その人物の話に疑問を呈したり反論したりしてみるのもよいでしょう。それで怒り出したら、これも要注意です。

すべての人に仏性(仏としての本質・仏と成る可能性)が宿っています。目の前にいる人の仏性を心から敬っているか否(いな)か。この一点で、その人物のスピリチャルな資質を見抜くことができる。そうわたしは思っています。

かく言うわたしも、妻には上から目線で偉そうに説教をしてしまうことがあります。そんなとき、妻は即座に「しょせん、あなたもニセ坊主ということね」とわたしを一刀両断にします。

ありがたいことです。精進してまいります。

 

 

 

 

 

 

お題目のすすめ ー13歳からの南無妙法蓮華経ー ・その4

「お題目のすすめ ー13歳からの南無妙法蓮華経ー」というタイトルは長いので、これから、文中では「13歳からの南無妙法蓮華経」と、つづめて表記することにします。

自己肯定感が持てない多くの若者に『法華経』、お題目を知ってもらい、元気になってほしいというのが、わたしの願いです。

そこで法華経塾を立ち上げました。といっても、今のところ塾生はケンタのモデルとなった少年一人だけ。

塾の講義はウエブ上でもできます。これから八十代の若者にも九十代の若者(「青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心のありさまを言う」という言葉があります)にも入塾していただけたら、と思っています。

塾生、募集中です。

 

          13歳からの南無妙法蓮華経・その4

             お題目を行じる

「ケンタは『法華経』という御経の名前を知っているかい」

「ハイ、知っています」

「その『法華経』の正式なタイトルが『妙法蓮華経』だ。南無妙法蓮華経のことをお題目と言うが、それは妙法蓮華経が御経のタイトル、すなわち題目だからだ。

「そうなんですね。じゃあ、南無妙法蓮華経というのは、『妙法蓮華経』という御経に南無しますという意味になりますね」

 私は道場に置かれてある『法華経』を手にして言いました。

「そうだ。だがそれは、ただこの御経本を敬いますということではないぞ。

日蓮聖人はこう言われている。

 『妙法蓮華経の五字は経文の題名ではあるけれど、経文そのものを超えたものであるのです。単なる意味、道理でもありません。法華経全体の意(こころ)なのです』

 ということで、お題目を唱えるというのは。法華経のこころを敬い信じ、その中に飛び込んでいくということなのだ」

続けて私は聖人の言葉を紹介しました。

「更に聖人は、こう言われている。

 『初心の信徒が法華経のこころを知らなくても、お題目を行じていれば自然とそのこころが分かってくるのです』

ケンタはこれを聞いて質問しました。

「『お題目を行じる』っていうのは、南無妙法蓮華経を唱えるっていうことですよね」

「そうだね。だが、口先だけで唱えたのでは行じたことにはならない。お題目を唱える上でもっとも大切なことは、仏さまへの深い信頼だ。仏さまと離れたお題目というのはあり得ない。法華経を説かれた仏さまへの絶対の信を持って、全身全霊で南無妙法蓮華経を唱え、そのこころの中に飛び込んでいくのがお題目を行じるということだ。

お題目を口で唱えている人は多いけれど、お題目を行じている人は少ないのではないかな。

お題目を行じていると、自然と法華経のこころが分かってくるというのは、これを信じ行じていると、必ず実感できることだ。」

 ここまで話して、私は全身全霊で南無妙法蓮華経を一唱しました。

「なんか、お題目の響きってすごいですね。

で、先生は今、仏さまって言いましたけれど、仏さまってどのような存在なんですか」

 そう質問するケンタに向かって合掌し、私はこう言いました。

「目覚めればケンタは仏。私も仏だ」

ケンタは「えっ?」と言って、きょとんとしています。

「ケンタは漠然と、仏とはどこか遠い所にいる、人間とは懸け離れたスゴイ存在だと思っていたのではないかな。だがそうではないのだよ。南無妙法蓮華経を真に理解してもらうためには、仏とは何かを説明しておかなくてはならないようだな。このことを話すことにしよう」

 そう私はケンタに言いました。

                                                                                                                           ―つづくー

 



お題目のすすめ ー 13歳からの南無妙法蓮華経 ー  ・その3

 


 今日は、わたしの修行の師、斉藤大法上人のところに新年のご挨拶に伺ってきました。

 大法師は、私が瀬野泰光上人から、日蓮宗妙光結社・法華道場を継承することとなったを喜んでくださり、今後のことについて、いろいろとお話くださいました。

   不肖の弟子を慈しんでくださる、泰光上人、大法上人、二人の師匠に、わたしは朝夕のお勤めのときに、いつも、かたじけなく思って、師匠の法体健全を祈って合掌しています。

今回アップした内容は、ケンタとの合掌、南無についての対話です。

 

              南無ってどういうこと?

数日後の日曜日、ケンタは、私が教導(信徒を教え導く僧侶)を務める日蓮宗妙光結社・法華道場にやってきました。訪問ははじめてです。 

ケンタは、道場に入ると、まず、たくさんの漢字が書かれている大曼荼羅ご本尊に目を止めました。

「大きいですね。真ん中に書かれているのは南無妙法蓮華経ですか」

「そのとおり。これはご本尊といってな、礼拝の対象だ、この道場の中心となる、もっとも大切なものなのだよ。君の家は日蓮宗だから、家のお仏壇の中にも、同様のご本尊がお祀りされているはずだ。ご本尊については、いずれ詳しく話をしよう」

私は、ケンタに座布団をすすめ、彼と向き合って座りました。

「足は楽にしていいぞ」

そう言うと、ケンタはホッとしたようで、正座していた足を崩しました。

「では、さっそく話を始めよう。最初に、南無妙法蓮華経を今の日本語に置き換えることにする。南無妙法蓮華経はナム・ミョウホウレンゲキョウと分けられる」

「そうだったんですか。ボク、ナムミョウ・ホウレンゲキョウ」だと思ってました。

で、南無って『南が無い』っていう意味ですか。」

「そうではないんだな。南無は、インドの古代の言葉、サンスクリット語のnamasに漢字の音を当てたものだ。アメリカを漢字で書くと亜米利加となる。それとおんなじことだ。

「そう言えばボク、小さい女の子が手を合わせて『ナムー』って言ってる仏壇のコマーシャルを見たことがあります」

「人は、尊いもの、敬うべきもの、あるいは感謝すべきものと向き合うとき、手を合わせる。あの女の子は、お仏壇のご本尊、ご先祖に南無と手を合わせているのだね」

「南無とは『敬います』という気持ちを表した言葉なんですね」

「そのとおり。勉強の開始時と終了時に、ケンタと私は向き合って合掌をすることにしているよね。」

「はい。ボク合掌は、握手とおんなじで、ただ『よろしく』という気持でするものだと思ってました。でもそうじゃなくて、ほんとは合掌は敬いの心を込めてするものなのですね」

「そうだ。これからは相手に敬いの気持ちをもって合掌しよう」

「わかりました。でもなぜ先生はボクに合掌するのか、わかりません。ボクは生徒で中学二年の子どもですよ。生徒のボクが先生に合掌するのは理解できますけど」

「なるほど。だが合掌している仏像もあるぞ。この仏像の前にケンタが立つと、仏さまがケンタに合掌していることになる。これも理に合わないと思うかもしれないね。このことについては、またあとで話すとしよう。

南無妙法蓮華経の南無も敬いと感謝の気持ちを表現したものだ。

南無妙法蓮華経の南無は『敬う対象を絶対的に信じて、全身全霊でその懐(ふところ)に飛び込んでいきます』という表明なのだよ、敬う対象は妙法蓮華経だ。妙法蓮華経について話す前に、ちょっと休憩しよう」

そう話すと、私はポットの紅茶をケンタと自分のカップに注ぎ、合掌してから紅茶を飲んで一息つきました。ケンタも私を見て、合掌してからカップを手に取りました。

 

お題目のすすめ ー 13歳からの南無妙法蓮華経 ー・ その2

お題目のすすめ ー 13歳からの南無妙法蓮華経 ー その2 を アップしました。

長距離マラソンになりそうです。息切れして挫折したのでは、読むのを楽しんでくださっている方を裏切ることになります。

お導きいただけるよう御仏(みほとけ)に祈りながら、励んでまいります。

 

            人生でもっとも重要な疑問

 中学二年生になるケンタの両親は私の教員時代の教え子。その縁で、私は時々ケンタの家に赴いて勉強の面倒をみてやっています。

 ある日、勉強を終えた後、ケンタは、夕食の支度をしているお母さんに話しかけたときのことを話してくれました。

 

「ねえ、お母さん。毎朝、なぜお仏壇で、南無妙法蓮華経って唱えているの」

「ご先祖様に感謝して、家族の幸せを祈っているのよ』

「そうなんだ。で、お母さんの思ってる幸せって何」

「それは、家族みんなが健康で豊かに仲良く生きることよ」

「ふーん、じゃあ、お母さんの言う幸せって、いつ無くなるか分からないものってことだね」

「えっ、どういうこと」

「このあいだ、テレビで東日本大震災の時の映像を見たんだ。昨日まで家族仲良く暮らしていた人が、今日、それを一瞬のうちに失ってしまうってこともあるんだよね。」

「それは、そうだけど」

「でさ、南無妙法蓮華経ってどういう意味なの」

「それは・・・。そんなことより、アンタ宿題をまだ済ましてないでしょ。さっさとやってしまいなさい。アンタ、最近ちょっと怠けているんじゃないの」

そうお母さんに叱られて、話はそれっきりになってしまったそうです。

 

この話を私にしたあと、ケンタは私に質問しました。

「先生は、お坊さんですよね。南無妙法蓮華経ってどういう意味なんですか。幸せってお母さんが言うようなことなんですか」

「ケンタ、君は今、人生でもっとも重要な質問をしているのだぞ。このような問いを発する中学生はめったにいない。君は賢い。偉い」

そうほめると、ケンタはちょっと照れくさそうな顔をしました。

 

「南無妙法蓮華経には非常に深い意味がある。このことをについて、今度じっくりと話をしよう。幸せとは何か。このことについて、君と一緒に考えてみたいとも思う」そう言って、その日はケンタと別れました。

 

お題目のすすめ ー 13歳からの南無妙法蓮華経 ー・その1

日本の若者は自己肯定感が低いと言われています。日本人の若者の死因のトップは自死であるという話を聞いたこともあります。

仏教は高齢者のためのもの。そのようなイメージを持っている人は少なくないと思す。ですが、わたしは『法華経』は何よりも若者に親しんでほしい経典だと思っています。お題目(南無妙法蓮華経)は、若者を勇気づけ元気にしてくれるというのが、わたしの実感です。

ということで、若者に元気になってほしいという思いから「お題目のすすめ ―13歳からの南無妙法蓮華経ー」という小さな本を書くことを思い立ちました。

若者に限らず、元気をなくしているすべての世代の方に読んでいただけたらとも思っています。

今日からこのブログで、少しずつ文章をアップして、最終的に小さな本を完成できればと考えています。ご感想などお聞かせいただけましたら嬉しいです。

 

               お題目のすすめ

                  ー13歳からの南無妙法蓮華経

                 はじめに

 三八年間、都立高校で国語を教えるかたわら仏教を学び、退職後、身延山での修行を経て、私は正式に僧侶として活動を始めました。63歳からの新たな出発でした。

 法華経、そして日蓮聖人と出会わなければ、教員生活をまっとうできなかった。そう私は痛感しています。

 校庭を歩いていると校舎の三階からイスが降ってくる学校で教えていたこともあります。困難な状況の中で、私を支えてくれたのは南無妙法蓮華経でした。

 さて、お題目(南無妙法蓮華経)を唱える方は多くいますが、お題目を唱えることの真の意義を理解している方は少ないようです。

「『日蓮聖人がお唱えになるお題目と私たちが唱えるお題目の功徳にはどの程度の差があるのでしょうか』とのご質問ですが、そこに優劣の差はありません。愚者が灯す火と智者が灯す火に優劣の差別がないのと同様です。ただし、法華経の心に背いて唱えれば、そこに歴然とした差別が生じるのです」

そう日蓮聖人は言われます。

 お題目によって救われた体験を踏まえ、法華経の心に添って日蓮聖人の遺されたお言葉に依り、「南無妙法蓮華経」とは何かをお伝えしたいと思います。

 本文中の日蓮聖人の言葉は、分かりやすさを優先して、すべて現代語に意訳させていただきました(原文と出典名は巻末に載せました)。

「口先で唱えるだけで実行力を伴わない主張」を「お題目」と言うことがありますが、これは「お題目」の誤った使い方です。日蓮聖人の説かれたお題目は、決して口先で唱えるだけのものではありません(この誤用がまかり通っているのは、口先だけでお題目を唱えている人が多いからなのかもしれませんね)。

 お題目は気休めで唱えるものではありません。本当のお題目には、人を変革し、世界に平和をもたらす力があります。本書を読まれたあと、本気でお題目を唱えれば、あなたもきっとこのことを実感されるはずです。

 一人でも多くの方に日蓮聖人のお説きになったお題目を唱えていただきたい。それが私の切なる願いです。

 本文は、中学生の少年の問いに私が答えるという形になっています。仏教は年配者のものというイメージがありますが、私は、法華経は最高の教育書であると思っています。

 本書を手にしてくださったあなたにお願いしたいことがあります。本書をお読みになったなら、お子さんやお孫さん、若い人たちにも南無妙法蓮華経の心をお伝えいただけないでしょうか。若者に本書手渡していただけましたら望外の幸せです。

 本文中に登場する中学生、ケンタは実在する人物ではありません。ですがモデルとなった少年はいます。私は彼と会うと、いっしょにお題目を唱えています。

 お題目は、世代を超えて、人を勇気づけ元気にしてくれます。南無妙法蓮華経を唱えることによって、あなたのいのちの輝きが増し、人生が大きく開かれていくことを願ってやみません。

 

少年には「成仏」をすぐには勧められませんので・・・。

かつて、勤務していた高校でわたしが開講していた、一般市民対象の公開講座名は「教養としての仏教」。受講生の平均年齢は六十代半ばを超えていたのではないかと思います。

中には九十歳に近い受講生もいらして、親しい同僚は「講座の期間中にお浄土に旅立たれる方があるかもしれないね」などと言っていました。冗談ではなく、わたしは真面目に講義中、受講生の体調を気遣っていました。

「仏教の目的は成仏することにあります」。こう言うと年配の方は頷かれますが、わたしが同様のことを、教室で教え子に言ったら「それは、ぼくたちには関係のないことです」といった顔をされました。

いじめにあったり、親の介護で大変な思いをしたりしている若者に「即身成仏、つまりこの世で成仏すれば、その苦しみは解決する」と言って、受け入れられることは、まずなでしょう(成仏することによってすべての苦しみが解消するというのは真実なのですが)。

日蓮聖人は仏と成るための最勝の法は、唱題、南無妙法蓮華経を唱えることであると言われました。さらには、あの世に往ってからではなく、この世で唱題により成仏することができると説かれました。

わたしは日蓮聖人の教えに従って仏道を歩み、唱題をしてきました。その結果、唱題によるこの世での成仏は真実であるという確信を持つに至りました。

ですが、今、わたしは十代の若者に唱題を勧めることがありますが、仏に成ることが唱題の目的であるとは言いません。

恋愛、受験、就職、結婚・・・。十代の若者は、この世で様々な夢を描き、願いを持って生きています。

理系か文系か、進路で悩んでいる若者に、わたしは、教員時代の経験を踏まえてアドバイスをした上で、「唱題をしてみないか」と言います。

「えっ?」とい顔をする若者に、わたしはこう言います。

「『君は偉大だ。君の内には限りない可能性が潜んでいる』。法華経という御経にはそう書かれてある。その可能性を開花させるために唱えるのが南無妙法蓮華経なんだ」

今日、わたしは勉強を教えている中学二年生の男の子に、筆で「道を開くための極意」と仰々しくタイトルを書いた一枚の紙を渡しました。そこにわたしは以下のことを記しました。

 

 澄んだ真っ直ぐな強い願いを持て。                      そのうえで以下の三つを堅持せよ。君の願いは必ず成就する。

*目に見えない大いなる存在の導きがあることを信じよ。

*自己の内に在る限りない可能性を信じ、自己を大切に育め。

*同時に、他者も限りない可能性を持っていることを信じ、他者を敬え。

 以上の三つの「信」が凝縮されたものが南無妙法蓮華経である。               南無妙法蓮華経と一つになるとき、君の道は開ける。

 

この人生の極意書(?)を受け取った少年は、これからいろいろなことにチャレンジし、大きな困難に遭遇することもあるでしょう。ですが南無妙法蓮華経と共に生きれば、たとえ転んでも、また立ち上がり、希望に向かって進んでいくことができることは間違いありません。

この少年が、おとなになって様々な経験を重ねたころ、わたしは「唱題の究極の目的は成仏することにある」と話そうと思っています。