体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

自信がなくても大丈夫?

オーストラリアでに「海外異文化体験」で生徒を引率したときのことです。生徒はそれぞれ一人で現地の家庭に宿泊しました。

多くの国々の生徒を受け入れた経験を持つホストファミリーのお父さんが「日本人の子を世話するのが、いちばん楽だよ」と言っていました。

「日本人の生徒は、ファミリーの言うことに、なんでも素直に従ってくれる」というのがその理由です。

他の国の生徒は、自己主張が強く、手を焼くことが多いとのことでした。

他国の若者に比べて日本の若者の自己肯定感は大変に低いという調査結果があります。日本の若者は、自己肯定感が低いがために、自信が持てず、自己主張することができないという傾向があるといってよいようです。

「自分は優秀である。才能がある」そのように感じて自分に誇りと自信をもっている若者が、日本と比べると海外には多いという実感をわたしは持っています。

とくに客観的な理由があってではなく、理由がなくてもそう思える若者も多いようです。

ペプシコーラが風邪に効く」と言うアメリカ人の青年がいました。周りが「おまえ、バカじゃないの」と笑っても「いや、これはオレの体験からいって絶対に間違いない」と言って、彼は決して凹むことはありませんでした。

私は長年、高校の教員をしてきましたが、明確な理由がなくとも、あるいは他者から見下されても、自信を持って堂々としている日本人の若者を見かけることは、まずありませんでした。

いっぽう競争社会の中で、他者と比較されて傷つき、生きる勇気を失っている若者には多く出会ってきました。

どれだけ多くのものを得たかという生産価値に重きを置く競争社会の中で、勝者となれず、あるいは勝者を目指すことに気の進まない若者に、わたしは教師として「頑張れ!」と叱咤激励することはしませんでした。

社会的に何かを得て、勝者となって自信を持っことを決して否定するわけではありません。ですが、そのような自信を持つことが仏の世界に入る上で妨げになることもあると感じています。

私には自信に満ちた叔父がいました。剣道六段の警部で警察の世界で活躍している人でした。手話も堪能で優しい叔父でした。中学時代、自信のなかったわたしは「叔父さんのような自信を得たい」と思って憧れていました。

ですが今に至るまで、社会の中で何とか生きてきたという思いはあっても、叔父のように堂々と自信をもって生きたことはありません。

少年期、警部の叔父に憧れながらも、いっぽうでは社会の中で何かを勝ち得て自信を持つことの寄る辺なさも感じていました。それが、わたしが仏道を歩むこととなった理由です。

気力にみなぎっていた叔父は、退職後ガンを患い、静かにあの世へと旅立っていきました。

六十歳を過ぎて正式に僧侶となったわたしは、僧侶の世界で出世することはないでしょう。出世する自信もありません。

ですが、今、深い充足感を得て生きています。それは、自己の内に失われることのない仏性(仏としての本質)があるという信を得たからです。

もし、わたしが社会的に有能で、そのことで自信を得ていたら、わたしは、心の内に目を向けることはなく、外側の世界で勝者となって、そこに安住していた気がします。

競争社会の中で自信を持てないでいる若者は、むしろ自信がある若者より、仏の世界に目覚める可能性を持っているのかもしれない。そんな気もします。

社会人の教え子からこんなことを言われました。

「日本の若者は元気がありません。そのことが気がかりです。若者を集めますので、元気になる話をしてくれませんか」

わたしは、この依頼に応えて、法華経の話をしようと思っています。

「あなたの内には仏がいる。あなたは尊い。このことに目覚めて生きよ!」

これが法華経のメッセージです。

「何かに秀でよう、抜きん出ようと思って努力するのよいことが、たとえその努力が実らなかったとしても、すでに今、君は尊いのだ」

わたしは、このことを法華経メッセンジャーとなって、多くの若者に伝えていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せについて・その2 ー 現世利益道から仏道へ ー

ブログ記事「お題目のすすめ ー13歳からの南無妙法蓮華経ー」で、ケンタのお母さんは、幸せの条件として、経済的な安定、健康、家族の仲が良いことを挙げました。

幸福の条件を問えば、多くの人がケンタのお母さんと同様、この三つを挙げるでことしょう。

戦後、新宗教は、入信すれば「貧、病、争」から抜け出せると言って、教勢を拡大してきました。この勢いに伝統仏教は太刀打ちでなかったと言えましょう。

真言、天台の密教だけではなく、日蓮宗禅宗でも「貧・病・争」から脱却し「富・健・和」を得るための加持、祈祷を行ってきました。しかし伝統仏教は、この三つ、すなわち現世利益を得ることを大々的に標榜することはしてきませんでした。

それは、釈尊が幸せになるために目を向けたのは、現世の利益ではなく、自己の内面に在る仏性(仏としての本質)であったからです。

仏道を歩む人たちは、仏性に目覚めるために修行をしてきました。「富・健・和」を目的地に置いたら、それは「仏道」ではなく「現世利益道」になってしまいますので。

先述したように、大多数の人が魅力を感じるのは「仏道」ではなく「現世利益道」でありましょう。わたしはこの思いを否定できません。ケンタのお母さんのように、お金があって、健康で、家族が仲良く暮らすことが幸せだと思うのは、人として自然なことです。

ところが、現世的な幸せがそれなりに満たされていていながらも、生きていて充実感を感じられないという女性と今日、出会いました。このような人は、決して少数派ではないようです。

近年では、ほとんどの新宗教が教勢を拡大できず、衰退の道を辿っています。それは、「現世利益道」に魅力を感じる人々が減少しているからなのかもしれません。

以下は、わが師、斉藤大法上人のフェイスブック上の文章からの引用です。

イースターリンのパラドクス

一人当たりGDPの高い国の子どもほど、生活全般の満足度が低くなることがわかりました。彼らの計算によれば、もし一人当たりGDPが2倍になった場合、48%ほど生活全般の満足度が低くなっていました。また、一人当たりGDPの高い国の子どもほど、喜びや安堵(あんど)などのポジティブ感情が低く、悲しみや怒りなどのネガティブ感情が高くなっていたのです。   

わたしは、日本の若い人たちの死因のトップが自死であるということも気になっています。辛い話ですが、わたしは教員時代、自ら命を絶った高校二年生の男子生徒の学年の主任をしていたことがあります。「いじめ」はなく、健康上も問題のない生徒で、家庭にも問題はありませんでした。両親もなぜ命を絶ったのか分からないと言っていました。           

この生徒について「わがままだ」と評した教員がいましたが、わたしはこの言葉に怒りを覚えました。命を絶った生徒は、外側の世界のみで幸せを追求しているこの世界に虚無を感じたのではないか。そんな気がしています。外側の幸せは寄る辺のないものです。わたしは彼は「わがまま」ではなく、「真面目に外側に幸せを求めて生きていて苦しかった」のだと思っています。     

実はこの生徒は、亡くなる一年前に数週間、不登校になったことがありました。そのとき、わたしは彼と面接をし、不登校の理由を知りました。                   

「一学期の中間試験では予想外の良い成績を取ることができました。でも次の期末試験で同様に良い成績が収められるか不安です。それで学校に足が向きません」これが彼の言葉でした。  

わたしは、彼にこう言いました。「大丈夫!君はしっかりとやっていけるだけの十分な力を持ってる。たとえ期末試験の成績が振るわなかったとしても気に病むことはない。先は長いんだ。一緒にがんばろう」 彼は笑顔でうなずき、それ以来、学校を休むことはありませんでした。                                        

悔やまれるのは、「本当の幸せは成績とか学歴とか経済力とか他者からの評価では得られない。君に内在する、いのちの輝きに目覚めた時に揺るぎのない幸せを手に入れることができるのだ」ということを彼に伝えなかったことです。                    

れ以来、元気のない生徒に出会うと、まず、わたしはこう言うようになりました。「成績が良いか悪いか、人から認められているかいないか、そんなことに関係なく、君は尊い。無条件で尊い!」                                     

このことを断言しているのが法華経です。『法華経』は最高の教育書であるとわたしは考えています。                                      

現世の学業や仕事を大切にしながらも、そこに絶対的な価値を置くことなく、内在するいのちの輝き、仏性に目覚めることを主軸として生きていく。そのような生き方を縁のある方々にお伝えしていきたいと思っています。それが釈尊の説いた、幸せを外界ではなく内側に求めていく生き方です。                                  

今、「現世利益道」の時代からから「仏道」の時代へと転換を図らなくてはならない時期に来ているのではないか。そのようにわたしは感じています。

 

幸せについて・その1

バブル経済の余韻が残っていたころ、生徒に、こんな質問をしたことがあります。

「君に生涯、毎日10万円をあげることを保証しよう。だけれど10万円を受け取るには条件がある。それは難行苦行をしろといったことではない。生涯、人と親密なコミュニケーションをとってはいけないというのがその条件だ。友人や恋人をつくってはいけないし、もちろん結婚をしてもいけない。あとは、どこで何をしようと、まったく君の自由だ。さて、この条件を受け入れて、君は日々10万円を手にする選択をするかな?」

あくまでも「仮にそういうことがあったとしたら」の話ですが、このように言って、教室にいた40名ほどの生徒に挙手をしてもらうと、数人がその選択をするという方に手を挙げましました。この選択をした生徒は、お金こそが幸せに生きるために最も重要なものであると考え、他の物事にはほとんど価値を見出していなかったのでしょう。

とは言え、お金があっても、病気でベッドに寝たきりの生活では、旅行をしたり美味しいものを食べたりなど、自由に人生を楽しむことはできません。健康もお金とともに大きな幸せの条件であると言えましょう。10万円を得ることを選択した生徒は、健康管理には十分に留意するに違いありません。

一方、夜間の定時制高校で教えていたころ、母子家庭に育ち、母親が病弱なため、昼間は家族を養うため働いている男子生徒がいました。

「大変だなあ、頑張れよ」と私が労(ねぎら)うと、彼はこう言いました。

「先生、ボクは幸せ者です。仕事と勉強を終えて家に帰ると、幼い弟と妹が『お兄ちゃんお帰り』といって、嬉しそうにボクに突進してくるんです。母は、いつも『すまないねえ、ご苦労さま』と優しく声を掛けてくれます」

お金と健康が大切であることは、わたしも身をもって感じています。ですが、それが満たされなくても、良き人間関係が人を幸せにしてくれるということを彼から学びました。

お金、健康、良き人間関係。幸せに生きるためには。この三つ大切であり、特に人は孤独な状況で幸せであることは困難である。このことに異を唱える人はいないのではないでしょうか。

先の日々、十万円を手にする選択をした生徒は、「孤独の闇」を想像することができなかったのでしょう。

貧しさから脱すること、健康を回復すること、他者との争いを終わらせること。このようなことに努力をしている人がいれば、わたしは無力ながらも応援したいと思います。と同時に、釈尊のいう幸せがどのようなものであるかもお伝えしたいと思っています。一言で言えば、釈尊は、自己と他者の外側ではなく、内側に目を向けて、揺るぎのない幸せを手に入れられました。このことを、次回にお伝えしたいと思います。

お題目のすすめ ー13歳からの南無妙法蓮華経ー   その5

キリスト教の神と仏教の仏を「同じようなものだろう」と思っている人が、案外多いようです。ですがそれは誤解。

「成仏」という言葉がありますが、一神教の国で「あなたも神に成ることができます」と言ったら大変なことになります。「成神」はあり得ません。

「13歳からの南無妙法蓮華経・その5」をアップします。ケンタは「仏」について理解をし始めたようです。

 

          13歳からの南無妙法蓮華経・その5

              お釈迦さまの目覚め

「さて、まずお釈迦様の話から始めよう。

小国とはいえ、一国の王子として城に生まれたお釈迦さまは、何の不自由もない生活を送っていた。豊かで健康で周囲の人たちから敬われ、愛する妻と子もいたのだ。

だが、その生活を捨てて、修行の旅に出る。

お釈迦さまは、自然災害や戦争などでいつ失われてもおかしくない、自分の外側の物質的なものに依る幸せとは違う、真実の幸せがあのではないかと思ったのだ」

「ボクのお母さんは、裕福で健康で家族が仲良く暮らすことが幸せだと言っていました。でも、お釈迦さまは、真の幸せを求めて、お城も財宝も家族も捨てて修行の旅に出たんですね。厳しい修行は、ゼッタイ健康にもよくないですよね。

お母さん、この話を聞いたらビックリするだろうな。

で、お釈迦さまは、その真実の幸せというのを見つけることができたのですか?」

「見つけることができた。そしてブッダとなったのだ。ブッタとは「目覚めた人」という意味。仏とはブッダのことだよ」

ブッダという言葉、聞いたことがあります。で、お釈迦さまは、いったい何に目覚めたんですか」

「本当の私に目覚めたのだ。たかだか生きても百年ほどで消えて無くなってしまうのが私ではない。肉体を超えた大いなるいのちが本当の私だということに目覚めたのだ。

「それは、お釈迦さまは、特別に優れた人なので、お釈迦さまだけが『肉体を超えた大いなるいのち』を持っていたということですか」

「いや、そうではない。『おおいなるいのち』こそが人の本質だということに目覚めたのだ。

大いなるいのち。それは時間、空間を超えた、限りない智慧と慈悲をもった、いのちそのものだ。そのいのちこそが、人の本質で、それは絶対に失われることはない。このことにお釈迦さまは目覚めたのだよ。この本質のことを仏性という」

「じゃあボクの本質も、その『大いなるいのち』だということなんですか。ボク、ほとんど智慧も慈悲ももってないですけど」

「そうだね。多くの人は、自己の仏性に目覚めてはない。だが、本当は誰もが仏性を内に具えた尊い存在なのだよ。このことに目覚めて、お釈迦さまは揺るぎのない平安に至ったのだ。お釈迦さまは、自己の外側にではなく、内側に真の幸せを見出したといってもよいだろう」

「それで、先生がボクに向かって合掌する意味が分かりました。

合掌している仏像は、向き合う人の「大いなるいのち」に合掌しているっていうことなのですね。

「そのとおりだよ。『仏さま!』と叫んだら仏さまは、その叫びに応えてくださる。と同時に仏さまはケンタの内にいると言ってもよい。仏性とは内なる仏だ。

私たちは、みな仏の子。それが、お釈迦さまが法華経で説かれている、もっとも重要な教えだ」

ケンタはここまで話を聞いて、こう言いました。

「今日、うちに帰ったら、ボクの鉛筆や消しゴムを無断で使う妹にも合掌します」

どうやら、ケンタは仏とは何かを分かり始めたようです。

 

 

 

 

心の断捨離

書斎の乱雑な書棚と、床に横積みになって放置されている本を見かねた妻が、わたしにこう言いました。

「書棚を整理できないで、不要の本も置きっぱなし。あなたの本は全部ブックオフに売ります!」

「本を売るならブックオフ♪」というコマーシャルがありましたが、大切な仏教書を売られたら、わたしは僧侶として生きていけません。わたしは妻に向かってこう言いました。

「本を売るならブン殴る♪」

妻に大変に叱られました。

ですが、妻の「本を全部売ります」という一言で、わたしは書斎の断捨離を決意。不要な書籍や書類を処分することにしました。

暮らしの中で不要な物を捨てるのが断捨離ですが、そこには物に執着せずに生きていこうという思想があるようです。

最近、唱題行(南無妙法蓮華経と一つになる修行)を深めるのには、心の断捨離が必要であると感じています。

社会生活の中では、あたりまえのことですが「私は小島弘之である」という意識は必要です。ですが、唱題をするにあたっては、小島弘之は不要なのです。最初は、小島弘之が全身全霊で唱題をするのですが、唱題が深まると「私」が唱えているという意識は消え、南無妙法蓮華経が自ずと腹の底から涌き上がってくるようになります。このときの南無妙法蓮華経は、小島弘之が唱えるもののではなく、小島弘之という「私」を超えた大いなるいのち、妙法が唱える南無妙法蓮華経となっています。

このような南無妙法蓮華経を唱えるために、日常にあっても不要な思いを捨て去っていくことは必要です。

「布施の三忘」という言葉があります。

いつ、誰に、何をしてあげたか。この三つを忘れなければ、真の布施を行ったことにはならないということを意味する言葉です。

布施というのは、一般に僧侶への謝礼の金品と解されています。ですが、本来は、励ましの言葉も、笑顔も、電車で席を譲ることも、仏の教えを伝えることも、すべてが布施であるのです。

「布施の三忘」の根底にあるのは「この私が・・・」という思いを捨てなくてはいけないという仏の教えです。

かつて勤務校の仏教の公開講座で布施について語ったとき、「私は日々、布施を心がけていて、布施日記をつけています」と言う受講生がいました。受講生は、誇らしげな顔で「日記には、布施をした日時と人と布施の内容を記録しているのです」と話してくれました。

わたしは絶句しました。

仏道を歩むにあたっては、「私」を光らせ誇示することに意味はありません。却ってそれが歩みを妨げてしまうことになります。

この「私」が非難されたり見下されたりして、そのことで怒ったり凹んだりすることも妨げになります。

わたしには二人の仏道の師匠がいますが、お二人と事実無根のことで誹謗や中傷されても、そのことに拘泥することなく、むしろ自分に悪意を向けた人に慈しみの心を向けています。

怒り、憎しみ、凹む心、自己を誇ろうとする思い・・・。そのような思いを捨てているからこそ、お二人は、深い唱題を行じることができているのだと思います。

妻に「本を売ったらブン殴る♪」などという私は、まだまだ修行が足りません。精進してまいります。

 

 

 

 

 

極意は無心にあり

無心というのは、何も考えないことではありません。

何も考えず、受験計画を立てず勉強もしないで志望校に合格することはないでしょう。無心とは、今なすべき一事に集中し、余事に心を向けないことです。

受験勉強時で言えば、試験に落ちたらどうしようとか、志望校に受かって自分を見下したクラスメートを見返してやりたい、といった思いが余事です。ただひたすら全力で、今なすべき勉強に取り組む。それが受験勉強に無心に取り組むということです。

この無心の大切さを、わたしは唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)修行の中で実感してきました。

師匠のような唱題ができるようになりたい、唱題について他者から認められるようになりたい、揺るぎのない自己を確立したい。あるいは自分の唱題がなかなか深まらないことに焦りを感じる。

どれもが余事です。どの思いも、向けられているのは唱題ではなく自分です。余事にとらわれていて無心になれない間は、真の唱題はできません。

心の苦しみから抜け出したくて唱題をし、苦しみが和らぐことはあります。ですがこの場合も、思いがむけられているのは唱題ではなく自分の苦しみです。これでは、唱題は一定のレベル以上、深まりません。

苦しみから抜け出したいというのも余事なのです。

無心に唱題するというのは、ただ唱える南無妙法蓮華経と一つになることに全身全霊で集中していくことです。これは簡単そうにみえて、実はかなり難しいことです。

南無妙法蓮華経を唱えていない時間も、唱題における余事にとらわれていると、唱題は深まっていきません。

人というのは、どうしても自分に目を向けてしまいます。自分は無名である、他者から評価されていない、と思ってみたり、あるいは逆境の中を生き抜いているヒーローであると思ってみたり・・・。思いは様々ですが、日常生活の中において、いつも自分に意識を向けていると、唱題修行に入った時、南無妙法蓮華経と一つになることは困難です。

妻からあることで厳しく批判されたとき、わたしが彼女に「心が傷つた」と言ったら、こう言い返されました。

「愛のある人は傷つくことはないのよ。傷ついたのは、私への愛がないという証拠ね」

わたしは何も言い返せませんでした。妻を本当に愛そうとするなら「傷つくこと」は余事です。真実の愛というのは無心なのでしょう。

唱題にかぎらず、無心は、あらゆる心願を成就させるための極意であるようです。

 

 

 

エネルギー護身術・その2

そばにいると、バンパイアのようにエネルギーを吸い取られるようで、ドッと疲れる人がいる。そのように「エネルギー護身術・その1」のコメント欄にお書きになった方がいます。

エネルギーバンパイア。そのような人は確かに存在します。エネルギーバンパイアは、多くの場合、無意識に他者からエネルギーを奪い取っています。

「よく話を聴いてくれる良い人なんですけれど、その人と話したあと、必ず体調や気分が落ち込むんです。どうしたらいよいのでしょう」

そのような相談を受けたことがあります。相談者は感受性が豊かで繊細、そしてちょっと自分に自信をもつことができないでいる人でした。このようなタイプの人は、エネルギーバンパイアの犠牲になりがちです。

エネルギーを奪われないために大切なのは、自分軸を確立することです。自分が進んで行きたい人生の方向を明確にし、人生を切り開いていこうとする確固たる意志を持つこと。このことによって、嫌なことには毅然としてノーと言えるようになります。そうなると、エネルギー次元で他者からの浸食を受けにくくなります。

昔、わたしは自信のない若者でした。それが仏への信を持つことによって、他者に翻弄されなくなりました。

「仏への信」というのは、仏に依存するということではありません。それは、あくまでも自分人生の主人公は自分で、進路を選択、判断する主体は自分であるけれど、どのような時も仏が共にいてくださるという確信です。わたしは、願わずとも御仏が導いてくださっていることを実感しています。わたしは、仏への信によって、自分軸を確立できたのでした。

仏道を歩み始めてから、たとえ周囲の人から見下されたり批判にさらされたりしても大きく傷つくことはなくなりました。

ですがずっと昔、わたしは繊細で傷つきやすい紅顔の美少年でした。このことを妻に言ったら「今のあなたは厚顔の老年じゃないの。同じコウガンでも紅顔と厚顔じゃ大違いだわ」とバカにされました。

精進してまいります。