体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

極意は無心にあり

無心というのは、何も考えないことではありません。

何も考えず、受験計画を立てず勉強もしないで志望校に合格することはないでしょう。無心とは、今なすべき一事に集中し、余事に心を向けないことです。

受験勉強時で言えば、試験に落ちたらどうしようとか、志望校に受かって自分を見下したクラスメートを見返してやりたい、といった思いが余事です。ただひたすら全力で、今なすべき勉強に取り組む。それが受験勉強に無心に取り組むということです。

この無心の大切さを、わたしは唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)修行の中で実感してきました。

師匠のような唱題ができるようになりたい、唱題について他者から認められるようになりたい、揺るぎのない自己を確立したい。あるいは自分の唱題がなかなか深まらないことに焦りを感じる。

どれもが余事です。どの思いも、向けられているのは唱題ではなく自分です。余事にとらわれていて無心になれない間は、真の唱題はできません。

心の苦しみから抜け出したくて唱題をし、苦しみが和らぐことはあります。ですがこの場合も、思いがむけられているのは唱題ではなく自分の苦しみです。これでは、唱題は一定のレベル以上、深まりません。

苦しみから抜け出したいというのも余事なのです。

無心に唱題するというのは、ただ唱える南無妙法蓮華経と一つになることに全身全霊で集中していくことです。これは簡単そうにみえて、実はかなり難しいことです。

南無妙法蓮華経を唱えていない時間も、唱題における余事にとらわれていると、唱題は深まっていきません。

人というのは、どうしても自分に目を向けてしまいます。自分は無名である、他者から評価されていない、と思ってみたり、あるいは逆境の中を生き抜いているヒーローであると思ってみたり・・・。思いは様々ですが、日常生活の中において、いつも自分に意識を向けていると、唱題修行に入った時、南無妙法蓮華経と一つになることは困難です。

妻からあることで厳しく批判されたとき、わたしが彼女に「心が傷つた」と言ったら、こう言い返されました。

「愛のある人は傷つくことはないのよ。傷ついたのは、私への愛がないという証拠ね」

わたしは何も言い返せませんでした。妻を本当に愛そうとするなら「傷つくこと」は余事です。真実の愛というのは無心なのでしょう。

唱題にかぎらず、無心は、あらゆる心願を成就させるための極意であるようです。