体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

修羅を生きる

教員時代、わたしは校長、副校長の下で主幹教諭というポジションで仕事をしてきました。複数の校長、副校長に仕えてきましたが、なぜか気が合うのは、修羅の気を帯びた上司でした。

わたしたちは人間界の住人ですが、中には地獄、餓鬼、畜生、修羅、あるいは仏の世界のいずれかの気を特に強く放っている人がいます。

わたしたちの心の中には、地獄から仏に至るまですべての世界が具わっているといると天台大師や日蓮聖人は説きましたが、そのことをわたしは如実に感じてきました。

わたしが気が合うと感じていた一人の校長が、若き日の蛮行を語ってくれたことがあります。

その校長が教員になって間もないころ、上品な店で、友達と二人でウイスキーのグラスを傾けながら語り合っていました。校長が少々大きな笑で笑ったところ、サングラスをかけて派手なネクタイをした黒いスーツ姿の男が二人のテーブルの前にやってきました。

男はいきなりバンとテーブルを手で叩き「うるせーんだよ!」と二人を威嚇しました。と、瞬時に校長は、口にくわえていた火の点いた煙草をジュッと男の手の甲に押し当てたそうです。

その後どのような展開になったか聞きませんでしたが、校長は体育の教師で、背は低いものの筋肉の付いた屈強な身体の持ち主でしたので、男は校長と争おうとはしなかったかもしれません。あるいは、ウイスキーグラスが叩き壊され、店は修羅場と化したのかもしれません。

この校長は、一方では情に厚いところもあり、敵が多くいながら、慕う者も多く、いわゆる教育困難校の変革に精力を注ぎ、その仕事を成功させてきました。

修羅の気の強い人は、人におもねることをしません。敵対する人物は容赦なく叩きのめします。味方がいても、心から信じることはしません。

修羅界の住人は、常に他者と競い合っていて、勝つか負けるかの世界にいます。上昇志向を強く持っています。

修羅界は人間界のより一つ下の階層ですが、それより下位の地獄、餓鬼、畜生(総称して三悪道と呼ばれています)よりは善い世界と言えましょう。

人間は、自分に敵対する人を許容することもできますが、他者に心にも無いお世辞を言って利益を得ようとしたりもします。そのようなことが無い修羅に、わたしは清々しさを感じることもあります。

わたしは、三人の霊的な感受性のある人から「あなたは十一面観音に縁があります」と言われたことがあります。十一面観音は修羅界を救済する観音です。

わたしが本当に十一面観音とご縁があるのかどうかは、定かではありませんが、修羅の気を帯びた人の傍にいることが多かったのは事実です。大きな声では言えませんけれど、わたしの妻は聡明な人ですが、彼女にも修羅の気を感じることが多々あります。

わたしは、おぼつかない足取りではありますが仏道を歩む者です。この道を歩むのに深山幽谷に籠るつもりはありません。これからも修羅、あるいは地獄、餓鬼、畜生の世界の気を放つ人とも交わっていくことになるでしょう。それが仏道を歩むということだと思っています。

 

 

本物を求める人は少ない

先日、我が家に来訪した長男と久しぶりに酒を飲みましたが、息子は驚いたように「おやじは、いつもこんな酒を飲んでるの」と言いました。

わたしが飲んでいる日本酒は、スーパーで最安値のもの。長男は家では上質の日本酒を嗜んでいるようで、その味と我が家の酒の味は、大きな隔たりがあったようです。

特に長男が裕福であるわけではありませんが、彼は日本酒の味には、こだわりを持っているようです。

わたしは、かつて俳人でしたが、俳句の初心者に,「駄句には触れず、常に良い俳句と接するるように。そのことで俳句の良し悪しが分かるようになってきます」と指導していました。これは俳句に限ったことではありません。日本酒も常に上質なものに触れていると、一口味わっただけで、その酒の品質の違いが分るようになるようです。

わたしは酒の味に無頓着ですが、わたしに限らず、本物の味を追求している酒飲みは少ないようです。上質の酒は値が張るということもありますが「それなりに味わって気分よく酔えればよい」というのが大方の酒飲みなのではないでしょうか。

さて、宗教の世界にあっても本物志向の人は少数のようです。仏教で言えば、釈尊の目覚めを目ざして、宗派によって修行方法は異なれど、ひたすら一本の道を進んでいくのが本物志向です。

神仏と呼ばれる大いなる存在にすがって、世俗的な願いを叶えようというのは、釈尊本来の仏道ではありません。

などと書くと、このブログの読者は減少するでしょう。実際、連載中の「14歳の君へ」よりも身辺雑記のような記事の方がアクセス数が伸びます。

決してわたしはこの事実を嘆いているわけではありません。健康で経済的に困窮せず良好な対人関係の中で楽しく生きたいと願うのは人として当然のこと。

わたしの文章を読む時間が、皆さまの人生の中で、一杯のコーヒーやお茶を飲む時間のように寛(くつろ)ぎの時となるのなら、これは嬉しいことです。

「14歳の君へ」は、本気で仏道を志向する人のために書いています。現実に本気で仏道を歩むことに関心を持つ14歳はまずいないでしょう。そのことは承知しています。にもかかわらずこの連載を続けてきたのは、ひと言で言えば、拙文が世俗の世界を超えた、目に見えない真実の世界があることに気づくきっかけになればと考えているからです。

また、この世界に気づくことなくして真実の幸せに出会うことはできないとも考えています。

『教祖完全マニュアル(ちくま新書)』という本を読んだことがあります。そこには、信者の獲得の仕方、集金方法、組織のつくりかたなどについて実践的な方法が示されていました。

わたしは、教祖になるつもりはありません(なりたくても、カリスマ性がないのでなれないでしょうけれど)。多くの人からの支持を得ることを目的としていません。

ごく少数でかまわないので、本物の仏道を歩むことを志向している仲間とともに道を歩んでいきたいと願っています。

 

夏休みが終わろうとしています

夏休みが終わろうとしています。この時期、わたしは子ども時代、いつも宿題に追われ、「来年こそは早めに宿題を終わらせよう」と思っていましたが、その反省が生かされたことはありませんでした。

中学二年生(以前の記事に登場した、わたしの「小さな弟子」、ガクトです)の勉強の面倒を見ていますが、彼もわたしと同様です。始業式前の登校日に提出する作文と英語の宿題について応援してくれと頼まれましたが、これが大変でした。英語の宿題は大量で、半分ほどやってはいたのですが、どう考えても、終わりそうにありません。

わたしが添削した作文をガクトが清書している間、わたしは彼に代って英語の宿題をやっていました(ナイショの話です)

この時期は、子どもにとって辛い時期です。宿題と格闘しなければいけないということもありますが、学校でいじられたり、いじめを受けたりしている子どもにとっては、特にそうでしょう。

先日(8月26日)の朝日新聞に「学校つらい君 何も悪くないよ」というタイトルの記事が載っていました。筆者は、中学時代にいじめられた経験のある、ユーチューバーの葉一さんです。いじめを受けながら「悪いのは自分のほうだ」と思ってしまう子どもが多いようです。

『僕は12歳』という詩の本があります。作者である12歳の真史(まさふみ)君は、自ら命を絶ちました。

「ひとり ただくずれさるのを まつだけ」

詩中の言葉です。

真史君は、作家の高史明(コ サミョン)さんの一人息子。高さんが真史君の詩を集めて出版したのが『僕は12歳』です。

真史君の詩に深く共感し「死にたい」と思う中高生もいるはずです。そのような若者に向かってわたしは、強くこう言いたいと思います。

「どのようなことがあっても、死んではいけない!」

ブログに連載中の「14歳の君へ」を一冊の本にまとめる方向で仕事を進めていますが、拙文の根底には、「生きる勇気をもってほしい」という若者への思いがあります。

いじめや、裏切り、蔑みがどこにでも存在するこの世界は、まさに汚泥(おでい)と言ってよいでしょう。ですが蓮の花は泥に染まることなく美しい花を咲かせます。

法華経』は、「汚泥の中にあって、誰もが白蓮華のように美しい花を咲かせることができる」と説いています。「汚泥不染(おでいふぜん)」は『法華経』の重要メッセージです。

このメッセージを多くの若者に発していきたい。それがわたしの願いです。

 

 

「すがる」に感じる違和感

東京の品川区でささやかな仏教の勉強会を開いています。メンバーのほとんどが、教員時代に勤務校で開催していた公開講座「教養としての仏教」の受講者です。

勤務校は公立高校でしたから、公開講座では、わたしが日蓮宗に所属していることを自ら明かすことはなく、一宗一派に偏らず仏教を俯瞰するよう心掛けていました。

ですが、修験道について詳しく触れなかったところ「修験道を軽く見ているのではないか」とお𠮟りを受けたこともあります。けっこう気を遣いました

現在は公立高校を退職し、仏教の勉強会では一僧侶としてお話をしていますので、自身の思うことを何の遠慮もなく語ることができます。参加者も自分の考えを自由に語り、談論風発して、楽しく仏教の学びを深めています。

昨日の勉強会では、日本史の参考書の鎌倉仏教に関わる記述に違和感を覚えたという話をしました。

一人の大学受験生の文系科目の面倒を見ている関係で、日本史の参考書を開いたのですが、そこには「阿弥陀仏にすがる浄土系の仏教」、「日蓮は『南無妙法蓮華経』という法華経の『題目』、つまりタイトルを唱えて法華経にすがることで救いがもたらされるとしました」という記述がありました。

浄土教についても日蓮仏教についても「すがる」という言葉が用いられてます。わたしは、日々、お題目を唱えていますが、「法華経にすがる」という思いで唱えることはありません。「すがる」のではなく、法華経と「ひとつになる」という思いでお題目を唱えています。

死後にお浄土に救済されることを願って阿弥陀仏におすがりするのが浄土教。そう思っている人は多いと思うのですが、わたしは、浄土教についても「すがる」という言葉を用いるのに違和感を感じます。

浄土真宗の篤信の信者を妙好人みょうこうにん)といいますが、ある妙好人についてこんな話が残っています。

ある村人がお寺に参詣したとき、信心深いと評判の男がご本尊の阿弥陀仏の前で、大の字になって、いびきををかいて昼寝をしていた。村人は男を揺すって起こしてこう言った。「あんたを信心深い男だと思っていたが、ご本尊様の前で大いびきをかいて昼寝とはとんでもない!見損なった」

すると男はこう言った。「親さまの前で昼寝をするのが何で悪いんだ?」

子どもは親の前では安心して昼寝をします。赤子が母乳を飲むときは、無心にお乳を吸っています。その姿を見て母子一体と言ったりします。

妙好人阿弥陀仏と向き合う思いは、「すがる」ではなく、「安心して委ねる。阿弥陀仏とひとつになる」と表現することができましょう。

「すがる」というのは「頼みとしてしっかりとつかまる。しがみつく」(『大辞林』)という意味ですが、絶対他力親鸞聖人の浄土教にあっては「すがる」は自力になるのではないでしょうか。

親鸞聖人の教えに基づいて慈善活動をした九条武子という人は、次のような歌を詠んでいます。

いだかれて ありとも知らず われ反抗す 大いなるみ手に

この歌にも「すがる」という思いはありません。

「おすがり信仰」という言葉もあるくらいで、一般には「信仰とはすがるもの」とみなされているようです。実際に「お題目を唱えてご本尊におすがりすれば、どんな願いも叶うのよ」と言っている女性をわたしは知っています。

特に強い信心を持っていなくとも、お迎えが近くなってくると、お念仏やお題目にすがる人は多いようです。

仏教の勉強会のメンバーも「神仏にすがることによって安心感を得られるのが宗教なのではないか」と考えているようで、仏教の信仰と「すがる」の結びつきに違和感を感じてはいないようでした。

ですが親鸞聖人、日蓮聖人がお念仏やお題目にすがっている人の姿をご覧になったら「それは、ちょっと違うのだよ」とおっしゃることでしょう。現代の多くの仏教信仰は宗祖の教えとは異なっているようです。

「すがる」という言葉を用いて鎌倉仏教を解説する日本史参考書の記述。ちょっと気になりました。

 

 

14歳の君へ㉖ 十界は君の内にある

仏教では、全世界を低い次元から高い次元にいたるまで十の世界に分けている。この十界を低次元の世界から順に並べると、以下のようになる。

地獄界 餓鬼界 畜生界 修羅界 人間界、天界界 声聞界 縁覚界 菩薩界 如来

このうち地獄界~天界の六つの世界を六道と言い、声聞界~如来界の四つの世界を四聖と言う。

四聖は仏の世界だけれど、仏教は「衆生の多くは、そこに行けず、車輪が回転し続けるように、生きかわり、死にかわりして、六道をさ迷い続けている」と説く。このことを六道輪廻(ろくどうりんね)という。六道を輪廻することから抜け出して、仏の世界に行くのが、仏道を歩むということなのだ。

因みに地獄界は大きな苦しみと苦痛に満ちた世界、餓鬼界は飢えと渇きに満ちた世界、畜生界は本能に突き動かされて理性が働かない世界、修羅界は常に他者に勝とうとする闘いの世界、天界は苦悩の少ない清浄な世界だ。

言うまでもなく、わたしたちは今、人間界にいる。当然、他の九界は自分とは別のところにある世界だと思うよね。だが『法華経』を数多くあるお経中の最高位に位置づけた天台大師は、十界それぞれの世界に他の九界が具(そなわ)っていると説いた。このことを十界互具(じゅっかいごく)と言う。

中学生になる男の子のお母さんが病気に罹り入院した。男の子はお見舞いに行く途中、一軒の家の庭先にきれいな花が咲いているのを見つけた。そしてその花を、周囲に人がいないことを確認して、たくさん摘んで病床のお母さんに渡した。

この男の子の心の中には、母を想う優しい気持ちと、見つからなければ他人の物を盗んでもよいという自己中心的な思いが同時にあったということになるね。

花を摘むという単純な行為の中にもさまざまな心の世界が存在しているのだ。

わたしたち人間界の存在は、地獄界の住人になることもできる。これは戦争で多くの人が殺戮されてきた歴史を見ればわかることだね。

だが、いっぽうでわたしたちは他者を慈しむ菩薩界の世界の存在となることもできる。このことを「十界互具」は教えてくれる。

日蓮聖人は、「よくよく尋ねてみると、地獄も仏も我々の五尺の身体の内に存在する」(『重須殿女房御返事・おもすどのにょうぼうごへんじ)』と言われている。

南無妙法蓮華経を唱えるというのは、わたしたちの心の中にある仏の世界を顕(あらわ)していくことなのだ。

さらに言えば、あの世で地獄界や餓鬼界にいて苦しんでいるたましいの中にも仏界があるのだから、そのたましいに向けて南無妙法蓮華経を唱えれば、その光に照らされて仏界が顕れ、あの世のたましいも成仏できるということになるのだ。

十界互具の話をある所でしたら、「仏さまの心の中に地獄があるなんて信じられません」と言う人がいた。だが、仏さまが地獄と無縁だったら、地獄の住人の苦しみを理解できず、救うこともできないのではないかな。仏さまは、六道の世界をよくご存じだけれど、六道輪廻を超えているので、そこに落ちるということはないということなのだ。

兼好法師は『徒然草』で、友とするに悪(わろ)き者の一つに「病なく身強き者」をあげている。

兼好法師は強健な体の持ち主ではなかった。身体の苦しさを訴えることもあったけれど、身体が強健な人は、苦しんだ経験が皆無なので、兼好法師の苦しみを理解し、それに寄り添ってはくれない。だから「病なく身強き者」を友としたくなかったのだろうね。

仏さまの内には、病の世界、痛み、苦しみの世界、その他すべての世界が存在している。だから仏さまは衆生の側に立って衆生を慈しみ、仏の世界と導くことができるのだ。

わたしたちの心にもすべての世界が具わっているのだけれど、わたしたちはそのことに気づけないでいる。

昔の話だが「24時間戦えますか」というセリフの入った栄養ドリンクのテレビコマーシャルがあった。日本経済が上り坂の時、企業戦士と呼ばれる多くの人たちが、経済戦争の中で戦っていた。このような人たちは、人間界にありながら修羅の世界で戦っていたといってよいのかもしれない。

現代でも、人間界にいながら、修羅界をはじめとして、人間界以下の世界を心に顕している人がたくさんいると言ってよいだろう

地獄界も仏の世界もどこか遠くにあるのではない。わたしたちは今ここで、瞬時に地獄に落ちてしまうこともあり得る。いっぽう、今ここで、目覚めて仏となることもできるのだ。

南無妙法蓮華経を唱えるというのは、我が心の中の仏の世界に焦点を合わせて仏になるということなのだ。

前に室住一妙先生が「仏となれよ、今すぐに」と常に学生たちに言われていたという話をしたが、これはそのことなのだ。

 

 

 

 

14歳の君へ㉕ ご本尊とひとつになる

信仰の対象として、お寺の本堂の中心に安置する仏さまの像を本尊という。

日蓮宗でも本尊として仏さまの像をお祀(まつ)りすることがあるけれど、日蓮宗の多くの寺院では、写真のような紙幅(しふく)をご本尊としてお祀りしている。これを十界大曼荼羅ご本尊(じゅっかいだいまんだらごほんぞん)という。

曼荼羅というのは、大宇宙の本質的なものを多くの神仏の配置によって表現したものだ。

十界大曼荼羅ご本尊には、中央に南無妙法蓮華経と大書されたその両脇に、たくさんの神仏の名前が記されている。

君の家が日蓮宗系のお寺の檀家で、家に仏壇があるなら、仏壇の中にも小さなご本尊が祀られているはずだ。仏壇は簡単にいえばお寺のミニチュアだからね。

十界大曼荼羅は、日蓮聖人がはじめて顕(あらわ)された曼荼羅だ。

中央の南無妙法蓮華経は独特の筆法で書かれている。字の先端が髭(ひげ)のように伸びているので髭題目と呼ばれている。これはお題目から放たれた光が十界すべてを照らしている様子を表しているんだ。

十界とは全世界のこと。このことについては後に話すことにして、ここでは十界大曼荼羅ご本尊とお題目との関係について話すことにしよう。

「『ご本尊さま、願いします』ってお題目を唱えたら、どんな願いも叶うのよ』

そうおっしゃるご婦人がいたけれど、ご本尊は、何でも願いを叶えてくれる魔法使いのような存在ではない。

南無妙法蓮華経を唱えるということは、ご本尊と自分との区別をなくすこと、救うものと救われるものの境界線を消すことなのだ。それはご本尊に自分のすべてを委(ゆだ)ね、明け渡すということだ。

これはご本尊の中に飛び込んで、ご本尊とひとつになることと言ってもよい。

この思いで全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えていると、身の内から南無妙法蓮華経が涌き出てくる。心の中に泉を見出し、そこからいのちの水がコンコンと涌き上がってくるのを感じる。

この涌き出るお題目を唱えることは、日蓮聖人が「これに勝る喜びがあるでしょうか」と言われたとおり、何ものにも代えがたい喜びなのだ。これは実践してはじめて分ることだけれどね。

このお題目を唱えるためのポイントについて、聖人は次のように書かれている。

このご本尊も只(ただ)信心の二字におさまっているのです。(『日女御前御返事・にちにょごぜんごへんじ』)

頭を捨てて、ご本尊を信じ切ってその中に飛び込んでいく。その信が深まれば深まるほどにお題目は涌出してくるのだ。

法華経』の「法師(ほっし)品・第十」に次のような譬え話がある。

喉が渇いて水が欲しくなり、高原に穴を掘って水を求める人がいたとする。渇いた土を見て、まだ水が遠いことを知るが、あきらめずにさらに作業を続けて、湿った土を見たなら、その人は水が近いと知ることとなるのだ。

全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えるというのは、まさに、高原で水を求めて穴を掘るようなことだと言える。

この作業を続けるのには「絶対に水に出会える」という信が必要だよね。信があやふやだと、途中で作業を止めてしまうかもしれない。

わたしたちは深い信を持った南無妙法蓮華経を唱えることで、御仏(みほとけ)のいのちに出会えるのだ。

お題目はどこでも唱えられる。ご本尊のある場所以外では唱えられないということは決してない。だがご本尊の前で唱えることには大きな意義がある。

十界大曼荼羅ご本尊は、万物を生かしている根源の大生命、お釈迦さまのいのちそのものだということを、ここで君にしっかりと伝えておきたい。だからこのご本尊をを目の前にして、全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えると、自身が妙法蓮華経の五字の光明に照らされて、全集中のお題目がが深まっていくことが実感される。

ということで自宅で唱題するときには、十界曼荼羅ご本尊を安置してその前で唱題することを、わたしはお勧めしている。

お仏壇中にご本尊がお祀りされている場合は、その前でお唱えするとよいだろう。

 

 

 

映画『怪物』と幸せ

今朝、ブログの読者からメッセージをいただいた。

是枝裕和監督の映画『怪物』の中の「誰でも手に入るものを幸せっていうの」というセリフが心に残っている。昨日アップしたわたしの記事を読んで、この言葉を思い出した。

以上がメッセージの主旨だ。

わたしが授かった「たましい救済の唱題」というのは、特別な才能がある人しか唱えられないものではない。この唱題の道は万人に開かれている。

このようなブログの記事内容を受けてのメッセージであった。

御霊(みたま)を真に供養できるお題目を唱えられることは、わたしにとって何ものにも代えがたい幸せである。そしてこの幸せは誰にでも手に入るものである。

特定の人にしか手に入らない幸せは、ニセモノの幸せといってもよいのかもしれない。

例えば家柄による幸せ、東大に合格した幸せ。これが幸せなら、庶民やほとんどの受験生は幸せを手にできないことになる。

これについては誰もが頷くだろう。だが「健康で幸せです」というのはどうだろう。これはよく聞く言葉だ。だが健康であることが幸せなら、病気の人、心身に障害のある人は幸せではないことになる。

誰でも手に入る幸せこそが本当の幸せ。そうわたしは実感している。

わたしは『怪物』をまだ観ていないのだが、「幸せ」と同時に「怪物」とは何なのかが気になる。

時間が取れたら、ぜひ劇場で『怪物』を鑑賞したいと思っている。