体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

「わたしは人の役に立つことができる」という思い

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YMCAでお話をしてきました。テーマは「自己を育み、他者を育む」です。人が幸せになるためには、お金や健康が必要だということに、反論をする人はいないでしょう。

ですが、十分なお金を所有し健康に恵まれながら自らいのちを絶った人を、わたしは複数名、知っています。

 

なんんということでしょう! 間違って書きかけの文章を公開してしましました。この文章は未完成です。

YMCAでお話をさせていただいた後、親睦会があってお酒を頂き、その帰路、東横線の車内でパソコンを開きました(今も車内です)。お酒を飲んだ後に文章を書いてはいけませんね。普段も明晰とは言えない頭がさらに明晰ではなくなっています。

と、どうでもよい言い訳を長々と記していても意味がありません。明日、気合を入れて記事を完成させます。すみません。今日は帰宅して寝ます。おやすみなさい。

 

一夜明けて、パソコンに向かっています。前の言い訳の文を抹消し、何もなかったことにして、冒頭の文に続けて記事を完成させようかとも思いました。しかし、これからわたしはアドラーの共同体感覚について記すつもりでいるのです。その中には、「不完全な自己を受容する」ということが含まれています。

「いまこそ、わたしは自己の不完全さを受け入れる勇気を発揮せねばならない!」そう決意して、前文を取り消さずに記事を書き続けることにいたします。

お金と健康は大切です。ですが、それがあれば人は幸せになれるというわけではありません。この二つがなくても幸せに生きている人を、わたしはたくさん見てきました。S君はその一人です。

わたしが教員となって最初に赴任したのは定時制高校でした。その高校で新米教師のわたしはS君と出会いました。

彼が何の連絡もなく二日続けて学校を休んだことがありました。彼は昼間仕事をして、夜、高校で学んでいます。次の日も休んだら家庭訪問をしようかと考えていましたが、三日目、彼は登校してきました。

わたしは厳しい口調でS君を叱りました。「なぜ連絡をしないんだ。欠席の際は連絡をするのが決まりだということを忘れたのか」

彼は「すみません」と頭を下げ、こう言いました。「母の体調が悪くなりまして、母の看病と弟たちの面倒をみることをしなくてはなりませんで・・・」

彼の家は母子家庭で、彼には幼い弟と妹がいました。母親は虚弱で仕事に就いていません。家には電話がなく、公衆電話まで出向いて電話を掛けるゆとりがなかったようです。

わたしは、いきなり彼を𠮟りつけたことを深く反省しました。それ以降、叱るときには、まず理由を聞いてから叱るようになりました。

その後、わたしは彼に言いました。「君はいつも明るい顔で頑張っているよね。偉いなあ」

「偉くなんかないですよ。ぼくは幸せ者です。学校を終えて家に帰ると、まず弟と妹がぼくに嬉しそうに纏(まと)い付きます。母はいつも『おかえり。ご苦労様』と優しいことばをかけてくれます」そう笑顔で彼は答えました。

彼は、幼い弟と妹、そして母をささえることで、自分が家族の役に立っていることを実感していました。

アドラーが幸せに生きるための条件として挙げたのは、自己受容・世界への基本的な信頼感・貢献感の三つでした(アドラーは、この三つを総称して「共同体感覚」と呼んでいます)。S君が自分のことを「幸せ者」と感じる要因は、家族への貢献感にあったようです。

元気なお年寄りを弱らせるのは簡単なことです。「あなたが買い物に行っている間に何かやっておくことはないかしら」というおばあちゃんには、こう言えばよいのです。「おばあちゃんは、何もしなくてもいいのよ。炬燵でミカンでも食べながらテレビを見ていてちょうだい」善意と思えるこの言葉が貢献感を奪い、おばあちゃんの生きる気力を弱らせるるのです。

「おばあちゃんがテレビを見ながら留守番をしていてくれたので、安心して買い物に行ってこれたわ。助かりました、ありがとう」そう言えばお年寄りは、「自分は家族の役に立っている」と感じ、元気になることでしょう。

幼少時に母親を亡くした、問題行動を起こした生徒の保護者と面談したときのことです。生徒の面倒をずっと見てきた祖母がやってきました。

次の日、その生徒に「オマエのおばあちゃん『先生、いつも孫がご迷惑をおかけして申し訳ありません』と言って頭を下げ、オマエのことを心配していたぞ」と言いました。

すると生徒は「少しくらい心配をかけた方が、ばあちゃん、『死ぬに死ねない』といって長生きしますよ」と言いました。「何ていうことを言うんだ!」と叱責したのは言うまでもありません。ですが内心では「鋭いことを言う生徒だ。この孫の存在が祖母の貢献感を育んでいるのかもしれない」と思いました。

昨日YMCAでは、アドラーの言う幸せになるための三つの条件についてお話をしました。その中で「YMCAの創立者ジョージ・ウィリアムズは、まことに幸せな人であったと思います」と述べました。

ウィリアムズは、住み込みで呉服店で働いていましたが、彼は自分の部屋に仲間を集め、共に聖書を読んで祈りました。そして語り合いました。この集いが、世界最大規模の非営利団体へと発展したのです。ウィリアムズは社会に貢献したいという強い思いを抱いて、人々をを幸せにする活動に邁進したのに違いありません。

YMCAのメンバーの方々は、みなよいお顔をされていました。不登校などの青少年をサポートする事業の応援をされているとのことで、よいお顔の要因は、やはり貢献感にあるのだなと感じました。

YMCAでは、わたしがお話をする前に、全員で聖書を朗読し、賛美歌を歌いました。そこに仏教の坊主がいてよいのだろうかと思いました。ですがYMCAは、キリスト教の布教や伝道を目的とする会ではないので、その活動に参加するのに宗教が問われることは一切ないとのことでした。

とはいうものの、妻から「あなた、YMCAでお題目を唱えちゃだめよ」言われていましたので、スピーチの前に南無妙法蓮華経を唱えることはいたしませんでした。

みなさんから「よいお話でした」と言われ、ホッとしています。