体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

絆(きずな)の恐ろしさ

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絆に恐ろしさを感じることがあります。

「断ちがたい人と人との結びつき」それが絆です。東日本大震災以降、絆の大切さを語る人が多くなりました。人が生きていく上で絆が大切であるということに私も異論はありません。ではなぜ絆に恐ろしさを感じることがるのか。それは、「絆」と表現されるものが、実は人を縛るものであるごとが往々にしてあるからです。

「母と子の絆」というのは美しい言葉です。ですが母親が「絆」だと思っているものが「束縛」であったり「所有」や「支配」であったりすることがよくあります。

新婚旅行に新郎の母親が同行したという話を聞いたことがあります。これは極端な例ですが、母親がいつまでも子どもを手許から離したくないと思っている姿を見かけることがあります。

かつて、私のクラスに、どうしても学校に行けない男子生徒がいました。母親が必要以上に息子の世話を焼いて干渉し、息子の自立心を阻害しているのがその原因であるようでした。

恐ろしいことですが、我が国には、ペット化している子どもが少なからずいます。

我が家では、小型のメスの室内犬を飼っていました。最初のブログ記事「今を生きられたらいいなあ」の写真の犬です。先日、この犬の一周忌の読経を済ませました(この犬の亡くなった直後の供養体験について、要唱寺のHPに連載中の『小島弘之の僧侶の唱題体験記』に記しました)。

このペットは、毎日十分なエサを与えられ、妻からブラッシングをしてもらっていました。妻の気に入った犬用の服を着せられ、大切にされて生きていました。

我が家のはストレスのない幸せな日々を過ごしていましたが、もし見捨てられて外に出されたら、ひ弱であるため、エサを獲得することもできず、野良ネコの一撃で息絶えてしまったことでしょう。

家の中にいれば幸せだけれど、外にでることが恐くてできない。そんな子どもが少なからずいます。まさにペットのようです。我が家のペットは、家の近くでカラスが鳴くと怯えていました。

どんなに可愛がっていても、依存させ、子どもを自分の所有物のように扱っていたのでは、そこにあるものは、絆ではありません。束縛です。

子どもの生きていく強く美しい力を信じること。これがあって初めて母子の関係は絆となるのだと思います。

「わたしがあなたを守りましょう」と言って、信徒を縛り、依存させている宗教家もいます。 

今、要唱寺のお会式の法話の準備で、日蓮聖人の遺文を読んでいますが、そこで実感していることがあります。それは、聖人は、自己を高みに置いて、衆生を憐れんだり束縛したりすることは、決してなさらなかったということです。聖人は、常に信徒の「仏となる可能性」を信じていました。

日蓮聖人と信徒との間に育まれた絆に、わたしは深い感動を覚えています。