携帯電話のない昔の話です。真夜中に電話がかかってきました。「もしもし、小島ですが・・・」何の応答もありません。無言電話です。そんなことが二回ありました。二回とも時間は午前二時。曜日は木曜でした。
わたしは妻に言いました「午前二時といえば、草木も眠る丑三つ時。幽霊の出る時間だね」
「変なこと言わないでよ。でもまたかかってきたらどうしよう」妻は不安そうな顔をします。
彼女の不安は的中しました。翌週の木曜日の午前二時、また無言電話がかかってきたのです。沈黙の時間が少し続いた後、わたしは、低い声でおもむろに『般若心経』を唱えました。「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時・・・」すると電話はプツンと切れました。
翌週金曜の就寝前、仏さまにおことわりして、仏壇から鈴(りん)を持ち出し、受話器の横に置きました。無言電話がかかってきたら、今度は、まず鈴をチーンと鳴らしてから『般若心経』を唱えようと考えたのです。残念なことにそれ以降、無言電話がかかってくることはありませんでした。
電話の主は、『般若心経』が怖かったのでしょう。今、わたしは日蓮宗の僧となったので、『般若心経』は唱えず、専ら『法華経』を唱えていますが、どの御経であっても真夜中の読経が怖いことに変わりはないでしょう。それは日本では、御経は葬儀と深く結び付いているからだと思われます。
歌手の、つのだひろさんが、ベートーベンの「喜びの歌」の曲に乗せて『般若心経』を歌っています。カラオケボックスでこの曲を歌おうと思って「次、『般若心経』を歌うよ」と言ったら、仲間たちは、嫌そうな顔をしました。楽しい場に水を差してはいけません。結局わたしは『般若心経』を歌うのをやめました。
わが国の人々は、御経を聞くと死を連想し、御経に不吉なものを感じるようです。『般若心経』は、一切の囚われからの解放を説き、「不吉さ」とはまったく無縁です。『法華経』は「この世の生」を大肯定している御経です。このことを知っている日本人は少数です。
葬式仏教の僧侶来たりて経を読む小生もっともあれが嫌い
これは「葬式仏教」と揶揄される日本仏教に対する批判の歌と受け取ることができましょう。
ある男性が菩提寺を、人間関係についての悩みを相談するために訪れたとき、住職はこう言ったと言います。
「わしゃ、生ものは扱わん」
本当の話です。僧侶が、葬式仏教にあぐらをかいているうちに、多くの人々は、仏教に葬儀・法要という儀式しか求めなくなってしまったようです。
わたしは、一人の男性から、こんな質問をされたことがあります。
「お釈迦さまは、生きている人のために教えを説かれたのですよね。先生は、僧侶として、生きている人と亡くなっているいる人のどちらを大切にしているのですか」
わたしは、こう答えました。
「生きている人も亡くなっている人も、共に等しく大切にしています」
生きているか死んでいるかは、本質的なことではありません。すべてのたましいの済度にかかわるのが仏教です。
形骸化した葬式仏教では、死者を救済することもできません。生死を超えて、あらゆるいのち(死後もいのちは存続しています)を癒し、仏性への目覚を促すのが仏教です。
この仏教本来の目的に沿った活動をしていきたいと、わたしは考えています。出家、在家を問わず、この考えに賛同いただける方と共に仏の道を歩んでいくことができれば、これに勝る喜びはありません。
仏教もお経も決して不吉なものではありません。