体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

定年は臨終時 

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葬儀会館で、葬儀の法要を営んできました。

わたしは、お導師(中心となる僧)の脇で、読経、唱題をしましたが、椅子に座ろうとした時のことです。

読経の際にゴーンと打ち鳴らす鏧子(けいす)の棒に衣の袖が触れて、棒が床に落ちて、転がって行ってしまいました。みっともないことこの上もありません。

師匠からは、法要で所作を間違ったときなどは、慌てずに落ち着いて、何事もなかったかのように、ふるまうようにと言われていました。わたしは、その教えの通り、ゆっくりと棒を拾い上げ、着座して厳かに鏧子を打ち鳴らしました。

医師が患者の処置を間違えば、いのちに関わります。教員が生徒に間違ったことを教えれば、生徒の進路に関わります。間違いは許されません。ですが、僧侶が所作を間違っても、遺族に大きな迷惑はかかりません。お経の読み間違いなどは、ほとんどの遺族は気づかないでしょう。

ですが、教員から僧侶となったわたしは、決して今の方が楽なわけではありません。それは、なによりも僧侶に求められるのは、形式ではなく、内面のありようであるからです(もちろん、鏧子の棒を落としてもよいというわけではありませんが)。

葬儀の導師は、横浜の蓮馨寺住職、辻本学真上人でしたが、辻本師の引導に、わたしは、いつも力を感じます。

ちなみに引導とは、死者を済度するために、葬儀の際、導師がお棺の前に立ち、迷いを転じて悟りを開くための法語を説くことを言います。

蓮馨寺は、妻の実家の菩提寺ですが、妻は、「蓮馨寺のご住職には供養力がある」と言います。わたしも妻と同様のことを感じています。

美しい所作で厳かにお経を上げることも必要でしょうが、それは葬儀の本質ではありません。亡き人を済度したいという深い慈悲心。それがなによりも重要です。そのような慈悲心のある僧侶が供養力のある僧侶です。供養力のある僧侶は、遺族の心をも癒します。

葬儀の中心は遺族で、遺族の祈りが故人の冥福につながりますが、僧侶はその先達としての役割をしっかりと担わなければなりません。

わたしは未熟ですが、法要時には、故人のたましいの浄化、向上を祈念して、全集中の読経、唱題を行います。葬儀を終えると、全力を使い果たした感があります。

みたまを供養するためには、日常生活そのものも、なおざりにするわけにはいけません。生き方そのものを問われているのが僧侶だと感じています。

ですがありがたいことに、僧侶は多少ボケていても務まります。僧侶に必要なのは頭脳の明晰さではなく心の深まりであるからです。

僧侶としての定年は臨終のとき。そう思い定めて、唱題修行に邁進しています。