アメリカの保守勢力の強い地域では、ダーウィンの進化論を理科の授業で教えていません。それは、旧約聖書に記述されている「神による天地創造」は物語ではなく真実であり、進化論は誤りであると見なされているからです。これは、過去ではなく現代の話です。
宗教というのは、壮大な救済の物語と言うことができるようです。
「人は罪深い存在だが、神が遣わされた、そのひとり子、イエス・キリストを信じることによって救われる」というのは、キリスト教徒にとっては、物語ではなく真実なのでしょう。
多くの新宗教においては、教祖は救世主であると、仰がれています。外部の人間が「それって単なるお話でしょ」と思う教説を信者は真実であると受け止めています。
終戦直後、電信教という小さな教団があって、その御祭神はエジソンであったと言います。この話を聞いた時、わたしは、エジソンを「エイジさん」と聞き間違えました。「エイジさん」と呼ばれた電気屋のおやじさんが死後、神様として祭り上げられたのではないかと思ったのです(人を神として祭るのは、日本ではよくあることです)。
今、政権与党との深い関りが問題となっている新宗教の教祖は、信徒たちからメシアとして崇められていますが、信徒以外の人でそれを信じる人はいないでしょう。
宗教、宗派ごとにたくさんの物語が生み出されていますが、わたしは、それらを虚しいものと一蹴することはできないと考えています。その物語を受け入れることによって、心のやすらぎを得ている人も多数いるからです。
仏教には浄土信仰というものがあり、「阿弥陀如来による救済を信じてお念仏を称える者は、お浄土に往生し、仏になることができる」と信じられてきました。
近年は、「お念仏を称えればお浄土に往ける」ということを真実であると本気で受け入れている人は少数でしょうが、これを受け入れることができる人の方が、幸せであると言うこともできましょう。
多額の献金をすれば救われるといった物語は論外ですが、救済の物語を受け入れて生きることは、平安を得ることにつながり、それゆえ多くの人々が宗教に入信してきたのでしょう。
ですが、わたしは、ひとつの救済物語の中で生きようとは思っていません。釈尊の説かれた道は、あらゆる物語から目覚めていく道であると思っています。
自己の内なる仏性、仏としての本質に目覚めるために、わたしは南無妙法蓮華経を唱えています。
「仏性に目覚める」というのは、ひとつの観念的な物語ではありません。これは、身をもって体験していくものです。
唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)によって、肉体亡き後も意識、個性が存続するということが如実に体験されるようになってきました。わたしにとって、来世があるということも物語ではありません。このことは、また記事を改めてお伝えしたいと思います。