体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ㉒ カリスマ的支配

教員時代、わたしにこう言ってくれた生徒がいた。

「ボクは将来カリスマ美容師になります。ボクがそうなったとき、先生にまだ髪の毛があったら、ボクが先生の髪を切ってあげます」

残念ながら彼が美容師になつたとき、すでにわたしの頭はツルツルになっていたのだけれどね。

優れた技術で高い人気を持つ人を「カリスマ」と呼ぶことがあるが、本来、カリスマとは、神から与えられた特別な力を指し、超自然的、超人間的な資質を言う。預言者、呪術師、英雄などにみられる資質だね。

かつて信徒に、地下鉄にサリンを撒(ま)いて人を殺すように指示した教祖は、信徒の目にはカリスマ的な人物として映っていたのだろう。

「カリスマ的支配」という言葉がある。カリスマ的資質を持つ人と、それに帰依(信じて全面的にたよること)をする人との強い結びつきをいう言葉だ。

日蓮聖人をカリスマ的な人物だと言う人がいるが、これは正しい見かたではない。聖人は人を惹きつける魅力のある方ではあったが、カリスマ的支配とは無縁であった。

聖人は、前に話したとおり「法華経修行の肝心は不軽品(常不軽菩薩品)です」と言われた方だ。権力者に対して、おもねることなく、はっきりと主張をされる強い方であったが、信徒を下に見ることは決してなく、危害を加えた人物に対しても合掌をされた方であった。

「私の唱えるお題目には、あなたがたの唱えるお題目とは異なって神秘的な力が宿っているのです。わたしの唱題を聞くことによって、あなたがたは、はじめて仏となることができるのです」

そう日蓮聖人が言って、大音声(だいおんじょう)で朗々とお題目を唱え、人々を惹きつけたたなら、そこにはカリスマ的支配があったと言えよう。

もちろんそんなことはなかった。聖人は、信徒を自らに縋(すが)らせ崇拝させることはなさらなかった。

これは僧侶のわたしにとって、最も重要な点だ。

法華経はだれにも仏性(仏としての本質)があると説いている。その仏性に目覚めるためにみずから唱えるのが南無妙法蓮華経だ。

「僧侶であるわたしの唱えるお題目によって、あなた方は救われるのです」とわたしが言ったとしら、わたしはまったく法華経の教えが理解できていないか、大嘘つきかのどちらかだ。

法華の僧侶は祈祷をすることがあるが、真に修行を積んだ法華の僧侶は、信徒を自身に縋らせることはしない。信徒がみずからの唱題によって成仏する道へと導いている。

実を言うと、宗教者はカリスマ的資質があった方が人を集めやすいのだけれどね。

わたしがカリスマ僧侶となって信徒の前でお題目を唱えていたら、あの世で日蓮聖人から「いったいおまえは何をやってきたのだ。おまえは法華の僧侶ではない」と叱責されることは間違いない。

今、若い人にさかんに働きかけている新宗教がある。危険な宗教に引き込まれないためにも「カリスマ的支配」について知っておいた方がよいだろう。