体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ㉔ 唱題モードは無色透明

唱題、南無妙法蓮華経を唱える時のモード(心の状態)。それは無色透明だ。

「なんとしてでもアイツを負かしたい」といった思いで唱える唱題は、水に譬(たとえ)えれば、汚水の唱題。呪詛(相手に災いが及ぶように神仏に祈ること)の思いで唱える唱題は、これはもう毒薬入りの水の唱題といってよいだろう。

わたしは汚水や毒薬水の唱題をしたことはない。だが、「○○さんの病気が治りますように」とか「△△君が志望校に合格しますように」といった思いで唱題をしていた時期があった。これは汚水や毒薬水ではなく、美味しいジュースや芳醇なワインの唱題と言ってよいかもしれない。

ジュースやワイン(十代の君にワインは関係ないけれどね)は舌を喜ばせるけれど、毎日たくさん飲んでいたら糖尿病などになりかねない。でも地中や岩間から涌き出る清らかに澄んだ水は、毎日飲み続けても一切健康を損なうことはない。

わたしには二人の師がいる。一人はわたしを得度(お坊さんの道)へと導いてくださった瀬野泰光上人(『お題目がわかる本』(日蓮宗新聞社刊)などの著作をお持ちだ)。もう一人は、日ごろ唱題のご指導をいただいている、精神科医でもある斉藤大法上人だ。

わたしは、この二人の師から、涌き出る無色透明の清水のような唱題が日蓮聖人の唱題であることを学んだ。

瀬野師はずっと昔、合格するのが相当に難しい高校を志望している中学生の親から、合格祈願を依頼されたことがある。師は合格を念じて唱題し、その中学生は志望校への入学を果たした。親は子を連れて瀬野師のところにお礼にいらしたそうだ。ところが、しばらくしてその子はせっかく入学した高校を辞めてしまったという。ギリギリの成績で受かったので、授業についていけなくなってしまったのだ。

その子にとって何がよいのか、人知ではかることは難しい。

それ以来、瀬野師は依頼者の願いをご本尊には申し上げるが、みずからは、具体的なことを願い、念ずることなく、ただひたすらご本尊と一つになる唱題をされている。師は、このお題目を純粋題目と呼んでいる。

斉藤師は、精神科医であるので心の病を抱えた人と向き合うことが多い。だが「私がお題目を唱えて治してさしあげましょう」などと言うことは決してない。瀬野師と同様に純粋題目を唱えていらっしゃり、周囲の人にもそのお題目を唱えることを勧めている。

わたしも二人の師に倣って純粋題目を唱えてきた。その結果、実感していることがある。それは、わたしの意図、稚拙な思考を超えて、ご本尊が、祈願を依頼した方にジュースが必要だと判断されるなら、ジュースが与えられるということだ。不要だったりそれが好ましくなければ、ご本尊がそれを与えることはない。

前に話した通り、お釈迦さまの因行果徳の二法(修行とその結果えられたもののすべて)は唱題によって自然に譲り与えられると日蓮聖人は言われている。

因行果徳の二法だけではなく、その人にとって、ほんとうに大切なもの、必要なものは、求めて得るのではなく、はからいを超えて自然に与えられるのだということを、二人の師匠のもとで唱題をしてきて感じている。

ほんとうに大切なものは、自我で強く願い求めれば求めるほど遠退いていく。そんな気もしている。

無色透明の清水の唱題、純粋唱題というのは、こうなってほしい、こうなるべきだという自我の思いを超えて、ご本尊と一体化していく唱題なのだ。

二人のお師匠さま以外にも、このようなお題目を唱えているお坊さんがいることを、わたしは知っている。このお題目こそが、日蓮聖人が唱えられたお題目なのだ。

初心のうちは現世の利益を求めて唱題することがあってもよいと思う(人を呪うような唱題は論外だけれどね)。だが、お坊さんは、周囲の方々が純粋題目へと向かう道筋をつけることを忘れてはいけないと思っている。