僧侶がグリーフケアをするときに注意しなくてはならないことがあります。それは求められてもいないのに仏教の教えを説いてしまうことです。布教に熱心な僧侶がやってしまいがちなことです。
「諸行は無常です」。「会いし者は、いつか離れることが定めなのです」。愛しい人を亡くした方に、このようなお説教をすれば、却って悲しみを深めることになるかもしれません。
ただ、悲しみの底にある方に寄り添い、その方の話を傾聴する。それがグリーフケアをするにあたって、何よりも大切なことです。
もちろん、わたしもこの点を踏み外すようなことはしません。
これからわたしが行おうとしているグリーフケアは、この世に残された人を癒すだけではなく、あの世に赴いた人、死後の魂をも癒すものです。「死後も人は生きています」などと言うと、眉に唾を付ける人も多いでしょう。本気にする人がどれくらい、いるかは分かりませんが、間違いなく、そう考えている、あるいは感じている人はいるはずです。
事前に「死後の生」を前提としてのグリーフケアであることを、お伝えしますので、それを眉唾物だと思う方は申し込まれないでしょう。本気で故人を供養(慰霊)したいと願っている方と共に、僧侶として祈りを深めていくつもりです。
ではその供養が果たしてあの世の魂に届いているのかどうか。依頼者は、当然そういった疑問を持つでしょう。
わたしは、供養の読経、唱題をしていると、それがあの世の魂に届いたことを感じます。とはいってもわたしは、「たましいの供養」を真摯になされている、斉藤大法師と比べたら、本当に未熟です。
わたしが、死後の生を前提とした、この新しい形のグリーフケアをしようと決断したのは、橘ひかりさんと出会ったからです。
わたしが今年の3月、Web仏教講座を開講したことは、このブログでお伝えしましたが、橘さんは、その最初の受講生です。私の居住地から離れた場所に住む女性です。
彼女は、このブログではじめてわたしのことを知ったとのこと。何の面識もない僧侶に、受講の申し込みをするのには、ちょっと勇気が要ったそうです。なお、彼女は国家資格を持って公的な仕事に就いていますので、橘ひかりは、この場での活動名、仮名です。
さて、なぜその橘さんとの出会いが、このグリーフケアを行うことを決断させたのか。一言で言えば、彼女に霊的感受性があったからです(「何だか話が更に怪しい方向に進み出したぞ」と思われる方もいるでしょうね)。
わたしは中学生のころかか心霊の世界を探訪し続け、少なからぬ、いわゆる霊能者に会ってきました。霊能者というのは、玉石混交で圧倒的に石が多いというのが現実。精神を病んでいる人もいます。ですが、死後の個性の存在を感受する人が実際にいるというのは真実であると、わたしは認識しています。
わたしは教員時代、そのような生徒や教員(校長もいました)と出会ってきました。彼ら、彼女らは、みな真面目な常識人でした。霊的な感受性には程度の差がありますが、読者の中にも霊的なものを感受する感性をお持ちの方がいらっしゃるのではないかと思います。
橘さんについて、ここで詳述はしませんが、間違いなくしっかりとした霊的感受性を持っていると判断しました。ということで、彼女と連携し、故人の魂がどのような状態にあり、その魂にわたしの供養が届いたかどうかを視てもらうことを考えています。
彼女の霊視は無料で行うことを決めています。
この世とあの世の魂を共に癒していくのが、わたしと橘さんが行いたいと考えているグリーフケアです。
関心のある方はお問合せください。