幼いころ、わたしは死を恐れていました。自分の意識がすべて消滅していまうというのは耐え難い恐怖でした。
それが中学生のころに「心霊研究」と出会い、やがて仏教者として修行をしていくなかで、「死後の生」を確信するに至りました。今では、人の意識が死後も存続しているということは、「信じる」というより「当たり前の事実」となっています。そして僧侶として、たましいの供養をさせていただいています。
多くの人が、自分が消えて無くなってしまうという恐怖から解放されることを、わたしは願っています。しかし「永遠の生」を認識できれば、それでオーケーなのかというと、決してそうではないのです。
それは、仏法(仏の説かれた真理)が、たましいで理解できていないと、死後の世界でさまよい続け、あるいは苦しみ続けることになりかねないからです。
こんな寓話があります。
あるキリスト教の牧師さんが、死後、お花畑で目覚めました。小鳥がさえずり、美しい音楽が流れています。牧師さんは確信しました。「ここは天国であるに違いない。正しい信仰をしていたから、わたしは、神によってこのような場所に召されたのだ」
その場所では、日が暮れることはなく、いつも鳥はさえずり、同じ音楽が流れ、花は枯れることなく咲き続けています。お腹がすくこともなく眠くなることもありません。
牧師さんはだんだん退屈になってきて、苦痛を感じはじめました。どれだけの時間が経ったのか、それを知ることもできません。そんな時、頭上を天使がよぎっていきました。彼は天使を呼び止め、訊きました。「天使さん、ここは天国ですよね」天使は答えました。「えっ、地獄ですよ」
死後に赴く場所は人によってさまざま。暗闇の中の臭気漂う泥沼のような世界に、じっと、うずくまっているような人もいます。それに比べれば、牧師さんのいる世界は、まだましな世界でしょう。
もう十数年前の話ですが、父の死の直前(父は、すい臓がんの末期で、モルヒネで痛みを緩和していました)、わたしだけが病院の父のベッドの傍らにいる時間がありました。しばらく眠っていた父は、目覚めると夢で見ていた場所について話しました。
「シルエットになった山並みの向こうに夕日が沈もうとしていて、空は茜色に染まっている。すぐそばには赤とんぼが飛んでいた。静かな場所だったよ」
わたしは、父はすでに半ば、あの世に赴いていて、これから行く場所について語ったのではないかと思いました。この夢を見た次の日、父は亡くなりました。
わたしは、父の見てきた世界が、何故かとても父に似つかわしい場所に感じられました。父はその場所でしばらく休息したあと、供養を受けたことによって、今はまた別の穏やかな世界にいるようです。
なかには空襲の戦火で焼かれ、あるいは大地震で瓦礫の下に埋まり、供養されることもなく苦しみ続けている霊もあります。何百年、いや千年の時を苦しみ、うめきながら過ごしている霊もいます。そのような状態にあるのなら、いっそ消滅した方が楽かもしれません。
死ぬことを成仏すると言いますが、たとえお念仏を称えていたとしても、死んですぐにお浄土に赴いて仏に成れるわけではありません。これが厳然たる事実です。
肉体が滅んでも意識は残るということは、朗報であり、同時に恐ろしいお知らせでもあるのです。
ですがいたずらに死を恐ろしがる必要はありません。仏の世界へと向かう真実の道は用意されています。この道を歩めば、生きることも死ぬことも、深い喜びとなります。
今の苦しみから逃れるために自らいのちを断とうという人がいたら、わたしは、はっきりと言います。
「死んで永眠できればいいのですが、残念ながら永遠の眠りに就くことはできません。今苦しいなら、死んでも苦しみが続きます。自死は愚かな行為です」
『法華経』というお経に出会って、わたしは、生と死を超えた絶対的な平安と喜びの世界があることを知りました。お題目を唱えるというのは、この世界に目覚めていくということです。
「妙法蓮華経」の五字の光明の中に生き、「妙法蓮華経」の五字の光明の中に死す。
そのような思いで、わたしはいます。『法華経』が何を説いているのかについては、これから、このブログで詳しく紹介していくつもりです。
死後の世界は間違いなく存在します。しかし、このことを知っただけで安心してはいけません。死後の世界は多様です。死後、仏の世界に続く道から逸れ、さまよわないように、仏の説く真理に沿った道を、多くの方々と共に歩んでいきたいと思っています。
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