体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

決めつけない力・その2

「輪廻とか、カルマ論とか、近代化の文脈の中ではすでに過去に属するものとして否定されなくてはならないもの」

これは禅僧、藤田一照師の『仏教サイコロジー』(サンガ刊)中の言葉です。藤田師は、霊魂の存在を否定しているといってよいでしょう。

いっぽう、真言密教僧の山崎泰廣氏は、『阿息観呼吸法』(春秋社刊)で次のように述べています。

「無我とは、『固定した実体がない』といっているのであって、これを逆からいえば、『自由に変化する実態がある』ということである。実体そのものが無い、とはいっていない」

山崎師の言う「自由に変化する実態」は、霊魂と言い換えても差し支えないようです。

わたしの知り合いの浄土真宗の僧侶は、「死後、お浄土に往く」というのは物語で、死とは永遠の眠りである認識しています。

このように日本仏教においては、死後どうなるのかについては僧侶によって見解が分かれています。おおまかに言えば、密教系、日蓮系の宗派には「死後も存続する個性」を認めている僧侶が多く、浄土真宗においては、そのような存在を認めている僧侶は極めて少数であると言えそうです。

大学で講義される学問仏教では「霊魂の存在」を肯定的に扱うことはまずないといっていってよいと思いますが、葬儀、法要、布教の現場にあっては、霊を感じる人たちからの相談や質問が寄せられることも少なからずあります。

ここにおいてポイントになるのが決めつけない力です。

わたし自身は、唱題修行を通して霊魂が存在するのは自明の理だと思っていますが、檀信徒にわたしの認識を押し付けることはしません。

ただ供養をさせていただいていて感受した故人の状況、思いをお伝えすることはしています。このわたしの感受したことをどう受け取るのか。それは個々人で考え、判断していただきたいと思っています。

霊魂が存在するのかしないのか、現代科学では解明されていません。死後観は一人一人によって確立されるべきものでありましょう。

宗教は人に平安を与えるものですが、一定の教義で縛り、思索し判断する力を奪ってしまうこともあり得ます。伝統宗教もカルト化していく危険性をはらんでいます。

このブログでは、一僧侶であるがわたしが体験したことや考えていることをつづっています。その中で、わたしは「決めつけない力」を大切にしていきたいと思っています。

質問や疑問など、遠慮なくお寄せいただけたらと思っています。楽しんで読んでくださっている読者の皆さまと共に道を歩んで行くのが、わたしの喜びです。