体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

宗教教誨(きょうかい)とたましいの救済

教誨(きょうかい)。聞きなれない言葉ですが、辞書には次のように説明されています。

刑務所で受刑者に対して行う徳育の育成を目的とする教育活動。宗教教誨に限らない。(『広辞苑』)

この活動をする人を教誨師といいます。教誨師として活動をしている宗教者には、仏教のさまざまな宗派の僧侶やキリスト教の牧師などがいます。

最近、宗教教誨に関する本を読みました。タイトルは『教誨師』(堀川惠子・講談社文庫)。同書のカバーの裏には以下のように記されています。

50年もの間、死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち合い続けた教誨師・渡邉普相(わたなべふそう)。「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束のもと、初めて語られた死刑の現場とは?死刑制度が持つ矛盾と苦しみを一身に背負って生きた僧侶の人生を通して、死刑の内実を描いた問題作! 第1回城山三郎賞受賞。

大変に重たい内容の本でした。

教誨は受刑者が社会復帰することを支援する活動です。受刑者を更生させ救済することを目的としています。ですが死刑を宣告された人の教誨はそうではありません。その先にあるのは死なのですから。

浄土真宗本願寺派僧侶の渡邉師はこう言います。

「救いっていうのは命が助かるっていう意味じゃない。われわれの救いは阿弥陀様に抱かれていく救いだから」

宗祖・親鸞聖人の教え、「浄土門の慈悲」に沿った救いです。

ですが、渡邉師は平安に包まれて教誨活動をしていたわけではありません。渡邉師の苦悩を著者は次にように記しています。

「ひとたび経典の世界から自分を包む現実世界へと目をやったとき、目の前で起こり続ける苦しみと悲しみの連鎖に、『浄土』への信心だけで立ち向かうのは容易なことではない(中略)。

渡邉にとっても「浄土門の慈悲」と言う考え方ですべての迷いが解決されたわけではなかった。死刑囚が生きているうちに彼らを救うということが不可能であるというのならば、自分は教誨師として具体的に何をなすべきなのかー。深まる渡邉の疑問に、親鸞は明確な答えを用意してくれてはいなかった」

同書の解説で、龍谷大学法科大学院教授の石塚伸一氏は以下のように記しています。

「『生と死』という相矛盾するベクトルは、個人の中で葛藤を生み出し、その爆弾は、日々大きくなっていきます]

「生と死」という相矛盾するベクトルを抱えているのは、死刑囚だけではなく、教誨師の渡邉師も同様であったのでしょう。「死刑囚が生きているうちに彼らを救えないのなら、具体的に何をなすべきなのか」という渡邉師の疑問がこのことを物語っています。

渡邉師の教誨師としての真摯な姿勢に尊敬の思いを抱かずにはいられません。ですが、もしわたしが僧侶として教誨活動をすることになったら、この疑問、悩みは持たないでしょう。

それは「生と死」は、わたしにとって相矛盾するベクトルではないからです。「死後の生」をわたしは身体で感じ取っています。「生と死」は仏の世界に向かっていく、同じ方向のベクトルであるとわたしは感じていますので、そこに葛藤はありません。

生きているうちに死刑囚を救えないのなら、具体的に何をなすべきなのか。わたしにとってはその答えは明確です。なすべきこと。それは供養の唱題です。

過去の記事にも書きましたが、わたしは年忌法要の場などで唱題をしていると、唱える南無妙法蓮華経の声調はおのずと変化し、その変化で亡き御霊(みたま)が上がっていくことを感じます。

死後も存続するたましいがあるというのは、科学的には証明できません(否定もできませんが)。ですがわたしは、唱題修行の結果、亡き人の個性が存続することを感じるようになり、みほとけの力で、死後のたましいが救済されていくことを実感しています。遺族には、供養させていただいて感じたことをお伝えしています。

少なからぬ僧侶が、死後の世界は物語に過ぎず、葬儀・法要は遺族の悲しみを癒すためにあると認識しているようです。このような認識のもとでは、身寄りのない死刑囚の供養をしようという思いには至らないでしょう。

わたしは、江戸時代の死刑囚が処刑された刑場跡に赴いて供養の唱題をしたことがあります。これは、死刑囚のたましいへの教誨といってもよいかもしれません(教誨をするのは、わたしの自我ではなく、みほとけです)。

法華経』は、すべてのたましいに仏性(仏としての本質)が宿っていると説いています。死刑囚も例外ではありません。

死刑囚もあの世で、妙法蓮華経の光明に照らされて、己の愚かさに気づき、無明の闇から抜け出して仏の道を歩んで行くことができる。

そうわたしは認識し、たましいの救済活動としての唱題をしています。